シンボリルドルフ 1985年天皇賞(春)出走時
出典:wikipedia
シンボリルドルフは1981年3月13日生まれの競走馬です。
日本競馬史上初の七冠馬であり、そのあまりの強さから「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」という言葉(野平調教師の発言)や、レースに負けたとき悔し涙を流していたという逸話まで残されています。
ここではそんな皇帝・シンボリルドルフについて紹介したいと思います。
シンボリルドルフの血統について
父 パーソロン |
父の父 Milesian |
父の母 Paleo |
|
母 スイートルナ |
母の父 スピードシンボリ |
母の母 ダンスタイム |
リーディングサイアーに2度輝いた名種牡馬パーソロンと、シンボリ牧場が生産した名馬の1頭であるスピードシンボリ産駒の母スイートルナとの間に4番目の産駒として生まれたシンボリルドルフ。
同配合の兄弟はとにかく気性面が荒く、競走馬としては大成できなかったことから、シンボリルドルフも当初はそこまで大きな活躍をするとは思われていませんでした。
しかし、額に三日月の流星があり、牧場時代には『ルナ』と呼ばれていた神秘性のあるエピソードや、生まれてから僅か20分で立ち上がったことも後の大活躍を証明するには十分すぎるものではないでしょうか。
【弥生賞】岡部幸雄騎手の選択
3歳となったシンボリルドルフ陣営は初戦に弥生賞を選択しました。
ここには岡部幸雄騎手が主戦を務め、ここまで重賞を含む4戦全勝だったビゼンニシキも出走しており、クラシック本番を見据えて岡部騎手がどちらを選択するかが大きな注目を集めました。
大方の予想ではこれまでの厩舎との関係性からビゼンニシキの方を選択するのではないかといった声が多かったようです。
しかし当の岡部騎手によると、『選ぶとか迷うとかそんな次元の話ではなく、シンボリルドルフに乗る』と発言したように、最初からシンボリルドルフに乗ることを決めていました。
当時から一流騎手としての素質を見せていた岡部騎手の選馬眼の素晴らしさを証明するとともに、シンボリルドルフが放つ一流馬としてのオーラがそれだけ素晴らしいものだったということだったのではないでしょうか。
【日本ダービー】同世代の頂点へ
皐月賞で再びビゼンニシキとの対決を制し、大本命馬としてダービーに出走したシンボリルドルフですが、圧勝するかと思われていたこのレースでシンボリルドルフは思わぬ苦戦を強いられることになりました。
この年は冬季の長期的な寒波と降雪の多さから芝の発育状態が非常に悪く、春になった時点でも芝の状態が全く回復しなかったことから、その対策として大量の砂が入れられることになり、非常にパワーが求められる馬場となっていました。
結果として重馬場やダート実績のある先行馬がそのまま上位を独占する流れの中、後方からレースを進めたシンボリルドルフですが、向こう正面で岡部騎手が促しながらも反応しなかったため、場内が一時騒然となりました。
しかし、直線に入るとシンボリルドルフは自ら加速し、前を行く3頭を捻じ伏せるように捕えて2冠を達成しました。
その姿はまるでシンボリルドルフ自身が『焦らなくても勝てるよ』と言っているようで、後に岡部騎手がした『シンボリルドルフに競馬を教えてもらった』という発言に繋がってくるものでした。
【菊花賞】無敗の三冠達成!
夏に海外遠征のプランが予定されながら右肩に故障を発生したため遠征は白紙となり、一時は菊花賞にも間に合わないのではないか、といった報道もされました。
しかし陣営の必死の立て直しにより無事にステップレースであるセントライト記念に出走し、そこを圧勝したことで前人未到の『無敗の3冠馬』という称号に大本命馬として挑むことになりました。
そしてここでもシンボリルドルフはまさに正攻法と言った内容のレースを見せ、直線外から追いすがってくるゴールドウェイを抑え切って無敗の3冠を達成。
この年の菊花賞はシンボリルドルフのあまりの強さに、トライアルレースで権利を取りながらも回避を表明する馬が出てくるほどでした。
まさにシンボリルドルフ一色で、そこでしっかり結果を出したシンボリルドルフの強さが本物であることを証明するには十分すぎるほどの偉業だったのではないかと思います。
【天皇賞・秋】ギャロップダイナの強襲!皇帝が見せた悔し涙
4歳となり天皇賞・春でミスターシービーとの3冠馬対決を制したシンボリルドルフ。
宝塚記念に出走を予定していたものの、レース前日の土曜日に故障を発生してしまい、天皇賞・秋へは約5か月ぶりのぶっつけ本番でのレースを迎えることとなりました。
レースでは休み明けのハンデに加えて、今でも東京2000mでは不利とされる大外枠(スタート後すぐコーナーを回るので、距離損が非常に大きい)を引いてしまいながらも1番人気に支持されたのはファンの期待の表れでしょう。
しかし、やはり休み明けの影響が大きかったのかスタートで出遅れました。
さらに道中ハイペースで流れる中向こう正面で一気にポジションを上げてしまい、4コーナーでは早くも先頭に立ってしまうといったシンボリルドルフらしからぬバタついた競馬になってしまいます。
直線では迫り来る後続馬を競り落とすとてつもない強さを見せますが、ゴール直前で脚色が鈍ったところを大外からギャロップダイナに強襲されて1/2馬身差の2着に敗れてしまいました。
レース後にシンボリルドルフが悔し涙を流していたといった報道がされましたが、真実は定かではありません。
馬場の砂が目に入った可能性もありますし、レース後の興奮で目が充血していたためそう取られた可能性もあるでしょう。
ただ、シンボリルドルフが持つ超一流馬としてのプライドがこのような逸話を生み出したと考えるのは、決して不自然ではないかもしれませんね。
【ジャパンカップ】負けられない戦い、そして世界の頂点へ
天皇賞・秋で非常に強い内容ではあったものの惜敗を喫したシンボリルドルフにとって、絶対に落とせないレースがこのジャパンカップでした。
前年は菊花賞から中1週の厳しいローテーションに加えて、下痢が続くという体調面での不安を抱えながらも3着と能力を見せたのに対して、叩き2戦目でまだ余力も十分にあり、昨年と比べると余裕のあるローテーションであったこのジャパンカップは、まさに『負けられない戦い』だったと言えるでしょう。
そして、このジャパンカップでシンボリルドルフが見せたレースは、まさに『王者』としての貫録を十二分に見せつけるものでした。
ダービーで苦戦した重馬場でのレースでしたが、終始先行集団を見る位置でレースを進め、直線馬場の真ん中から堂々と抜け出すと、2着の地方競馬代表ロッキータイガー以下を完封して、ジャパンカップ史上初の1番人気での優勝馬となりました。
後に外国からの招待馬の関係者が『これだけの馬は我が国にはいない』と軒並み発言したことも、シンボリルドルフの能力を世界に知らしめる意味で大きな役割を果たしたのではないでしょうか。
ミスターシービーとの比較
ミスターシービーとは、シンボリルドルフが3歳時のジャパンカップ、有馬記念、そして4歳時の天皇賞・春で3度対戦してますが、その全てでシンボリルドルフの方が先着しているため、純粋な競走能力といった意味ではシンボリルドルフの方が上と認めざるを得ないでしょう。
しかし、先行抜け出しの安定したレース振りのシンボリルドルフに対して、最後方からの直線一気と行ったミスターシービーの派手なレース振りは競馬ファンの心を掴み、人気面ではシンボリルドルフの上をいっていたのもまた事実でしょう。
これだけキャラの違う3冠馬が2年連続で出たことも奇跡でしょうが、その対決を3度も見ることができたのは、競馬ファンにとっては非常に大きな財産となったのではないでしょうか。
歴代の最強馬論争
これまで多くの名馬が素晴らしい実績を残してきましたが、『芝のGⅠ(級)レース7勝』というのはシンボリルドルフの他には、シンザン、テイエムオペラオー、ディープインパクト、ウオッカ、そして海外GⅠを含めてもジェンティルドンナの5頭しか達成していない大記録です。
もちろん昔とはレース形態や引退時期なども大きく変わっているため単純な比較はできないでしょうが、シンボリルドルフが最強馬候補の一角を占めることに対して、異論があるファンはそれほど多くないのではないでしょうか。
最強馬の定義は人それぞれで、万人が納得する最強馬は今後も存在しないと思われますが、世界への扉を開くきっかけとなった最強馬候補としてシンボリルドルフの功績は大きく称えられるべきだと個人的には思っています。
まとめ
現役時代のレースを直接見てないので、あくまで自分の中のイメージではありますが、シンボリルドルフは現役生活でも、また『ダビスタ』などのゲームの中でも、とにかく『隙がなく、総合力が非常に高い馬』という印象を強く持っています。
もし全盛期であった4歳時に海外遠征が実現していたらどれだけの成績を残していたか。
それを想像してワクワクさせてくれるだけでもシンボリルドルフは偉大な名馬と言えるのではないかと思います。
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