シンボリクリスエス 2003年宝塚記念
TRJN / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)
シンボリクリスエスという馬をご存じでしょうか。
デビューは2001年で、21世紀の幕開けとともに活躍した名馬です。
実況でも噛んでしまいそうな名前と、現在でも産駒が活躍していることから近年競馬デビューを果たした人にとっては名前だけは聞いたことがあるという方も多いかと思われます。
しかしながら古くから競馬に携わっている競馬ファンならまだしも、20年近くも前に現役で活躍していた馬のため、最近競馬に触れたファンはシンボリクリスエスの生涯について詳しくない方も多いかもしれません。
当記事はそんな方々のためにシンボリクリスエスが現役時代にどのような活躍を魅せたかをまとめました。
外国産駒のシンボリクリスエス
シンボリクリスエスはアメリカ生まれの競走馬です。
父はクリスエスでアメリカで5戦3勝しましたが、大きなタイトルは掴めていません。母はティーキィでアメリカのG1タイトルを3つ獲得しましたが、血統背景に特出したものは持ち合わせていません。
血統背景に大きな特徴はなかったのですがシンボリ牧場の元経営者である和田共弘氏の眼に留まり、30万ドルで購入されました。和田氏はこのころ日本国内で大活躍していたサンデーサイレンス産駒に変わる種牡馬としてシンボリクリスエスに眼をつけたようです。
父親 クリスエス
少し話は脱線しますがシンボリクリスエスの父クリスエスは競走時代、これといった活躍はせずにレース後の脚の痛みを発症して引退しました。
正直なところ二流以下の成績だったにもかかわらず種牡馬入りすることができました。
血統的にも競走馬の成績も魅力がなかったために初年度の交配数は少なかったのですが85年産駒のイブニングクリスが米G1レースを制すると、それから毎年のようにG1ホースを輩出します。
血統背景も競走馬成績もとても一流とはいいがたいのもかからわず、G1ホースを毎年のように輩出したことで交配数が激増し93年にはリーディングサイヤーにまで上り詰めました。
クリスエスは亡くなる2002年まで種牡馬として活躍し、クリスエス産駒のG1ホースは40頭以上になります。ちなみにシンボリクリスエスは99年生まれなので晩年の産駒といえるでしょう。
シンボリクリスエスとシンボリクリエンス
(写真はイメージです)
和田氏の眼にとまったクリスエスの仔は「シンボリクリスエス」という馬名が付けられました。
名前の由来は「冠名+父名」です。
なお、92年に障害G1春秋連覇を成し遂げたシンボリクリエンスと名前が似ていたため、テレビやラジオ実況において時々間違われることもあったようです。
デビュー戦
デビューは2001年10月の東京競馬場でした。
父が名種牡馬であるクリスエスということもあり人気するかと思われましたが、いくら名種牡馬の仔とはいえダートが本場のアメリカで産まれたシンボリクリスエスが国内で通用するかどうか疑問視する声は多く、新馬戦での最終的な人気は4番人気でした。
しかし、デビュー戦は無事に勝ち切りました。
ただ、後に名馬として名を上げるほど鮮やかな勝ちっぷりとはいい難く、2着馬との着差はコンマ1秒差でした。2歳の戦績はこの1戦のみで、3歳から本格的にレーシングスケジュールが組まれることとなります。
日本ダービー
シンボリクリスエスにとっても陣営にとってもこの年はチャンスが詰まった年でした。
従来まで皐月賞・日本ダービー・菊花賞といったクラシック競走は日本馬しか出走できず、外国産駒が出走できる3歳限定G1はNHKマイルカップしかありませんでした。しかし、前年からルール改正が行われ、クラシックに外国馬が出走できるようになったのです。
新馬戦で初勝利を飾ったシンボリクリスエスはクラシックを目標に3歳明けから本格的に動き出します。
しかしながら
セントポーリア賞 2着
ゆりかもめ賞 3着
500万下 3着
と、勝ち切ることはできません。
このころ、同期のライバルはトライアルレースを使って皐月賞への権利を獲得しましたが、シンボリクリスエスは賞金の関係で皐月賞への出走が非常に厳しくなってしまいました。皐月賞は賞金の関係で諦めることとなります。
4月に中山で開催された山吹賞(500万下)を勝ち切ったシンボリクリスエスはダービートライアルである青葉賞(G2)を制し、ダービーの切符を獲得しました。
日本ダービーの権利を得たシンボリクリスエス。ところがシンボリクリスエスが制した青葉賞組はダービーでは勝てないというジンクスがありました。
その影響もあってか3番人気にまで支持を落としました。1番人気に支持されたのは皐月賞、NHKマイルで3着だったタニノギムレットです。2番人気はこの年の皐月賞馬であるノーリーズンでした。
ダービーはデビュー時に手綱をとった岡部幸雄騎手を背中に乗せて挑みました。4コーナーまで中段で待機し、直線で脚を使う差し切り勝負に挑みましたが、シンボリクリスエスよりも後ろで競馬をしていたタニノギムレットが外から強襲し、最後の最後でかわされ2着入選となりました。
しかしながらタニノグムレットにこそ差されてしまいましたが2着を死守したシンボリクリスエスの評価は飛躍的に上昇しました。陣営は春に6戦も走ったシンボリクリスエスを放牧に出し、秋に向けてスケジュールを組むこととなります。
ダービーエピソードをひとつ紹介します。
ダービートライアルである青葉賞で騎乗した武豊騎手はシンボリクリスエスのことを「秋になったら強くなる」と評価し、管理していた藤沢調教師は内心「秋かよ」と漏らしたそうです。
しかし、シンボリクリスエスがその名を世に轟かせたのは秋のG1前線からでした。
シンボリクリスエスを捕らえてダービーを制したタニノギムレットの鞍上は武豊騎手です。最後に、シンボリクリスエスを捕らえて鮮やかに勝ち切ったタニノギムレットのその後について紹介させてください。
ダービーを制した菊花賞に向けて調整されていましたが屈腱炎を発症し、このダービーを最後に引退してしまいます。タニノギムレットは引退後に種牡馬入りしました。代表産駒に牝馬でダービーを制したウオッカがいます。
シンボリクリスエスの秋
秋の最大目標は天皇賞(秋)でした。
菊花賞は距離の関係から早々に回避が表明されましたが、天皇賞(秋)の叩きとして菊花賞トライアルの神戸新聞杯に挑むこととなります。秋の初戦となった神戸新聞杯では皐月賞馬ノーリーズンを抑えて1番人気に支持され、それに応えて勝利します。
続く天皇賞(秋)はシンボリクリスエス陣営の最大目標でした。
東京競馬場が改修工事ということで中山競馬場で開催されることとなった天皇賞(秋)の1番人気は前年の桜花賞・秋華賞を制し、古馬になって札幌記念を制した牝馬のテイエムオーシャンです。2番人気はテイエムオペラオーと同期の菊花賞馬で、テイエムオペラオーが引退した後の競馬界を引率するナリタトップロードでした。3歳のシンボリクリスエスはテイエムオーシャン、ナリタトップロードに次ぐ3番人気で出走することとなりました。
しかしながらテイエムオーシャンは古馬になってから調子を落としていましたしナリタトップロードは関西では好走するもののこの時点で中山成績は(1-1-0-4)と舞台適正は決してよいものではありませんでした。3番人気に支持されたシンボリクリスエスは上位人気勢の中では不安要素が少なく、レースでも中段からの差し切り競馬で見事優勝したのです。
秋の盾を獲得したシンボリクリスエスはジャパンカップからの有馬記念へ挑むと発表されました。古馬の2戦目には世界のホースが集まるジャパンカップです。鞍上は岡部騎手からフランスのペリエ騎手へ乗り変わりとなります。
東京競馬場が改修工事だったために中山の芝2200mで開催されたジャパンカップに日本馬からは天皇賞(秋)で人気を集めたテイエムオーシャン、ナリタトップロードが参戦。さらに前年のダービー馬ジャングルポケットが参戦しましたが、前走の勝ちっぷりからシンボリクリスエスは1番人気に支持されます。
ところがレースは外国馬のファウルラヴ、サラファンといった穴馬のワンツーフィニッシュとなり、大荒れとなりました。日本勢の中ではシンボリクリスエスは最先着しましたが、思わぬ伏兵の存在に3着に敗れてしまいました。
この秋4戦目のレースは有馬記念でした。ダービーで2着、天皇賞(秋)の勝ちっぷりが評価されて2番人気にまで支持されましたが1番人気はデビューから6戦無敗で秋華賞・エリザベス女王杯を制したファインモーションでした。
しかしながら大逃げで逃げ粘るタップダンスシチーが13番人気を覆す走りぶりを見せます。最後まで逃げ粘るタップダンスシチーを捕らえられるかどうか、多くのファンが見守る中、最後の最後にタップダンスシチーを捕らえて見事優勝しました。
シンボリクリスエスはこの年、天皇賞(秋)と有馬記念の2つのG1タイトルを獲得しました。
クラシックはダービーのみの出走となりましたが引退したタニノギムレットの1馬身差の2着で多くの競馬関係者に実力の片鱗を見せつけることが出来ました。そして秋の天皇賞と有馬記念で古馬勢を打ち破り、多くの人に実力を証明できました。
シンボリクリスエスはこの年の年度代表馬になりました。
なお、この有馬記念で半馬身差で2着に入選したタップダンスシチーはこの時点で5歳でした。若いころはクラシックに縁がありませんでしたが、このころ、競走馬としては非常に遅咲きながらもにわかに才能を開花され、翌年以降にジャパンカップと宝塚記念を制する名馬となるのです。
古馬になったシンボリクリスエス
古馬になったシンボリクリスエス陣営は春の初戦に宝塚記念を選択しました。
初戦がいきなりグランプリレースの宝塚記念あることに疑問を持つ方もいらっしゃるかもしれません。この当時、春の中距離王者を決める大阪杯はまだG1ではなく、古馬の中長距離のG1はステイヤーレースの天皇賞(春)とこの宝塚記念しかありませんでした。元々距離不安があったために菊花賞を回避していたため、必然的に出走できる中距離G1が宝塚記念しかなかったのです。
宝塚記念では芝・ダートでG1タイトルを手にしたアグネスデジタル、ダービー馬ネオユニヴァースといった強敵が揃って出馬を表明しました。
豪華メンバーが集い、半年ぶりのレースだったにも関わらずシンボリクリスエスは1番人気に支持されましたが、さすがに休養初戦であったことが影響してか5着に敗れてしまいます。シンボリクリスエスの生涯においてとって唯一馬券から漏れたレースでした。
余談ですがこの宝塚記念を制したのはヒシミラクルでした。人気薄で菊花賞を制し、この年の天皇賞(春)をも勝ち切りこの宝塚記念も勝利したことでG1タイトルを3つ手にした馬ですがそれ以上にヒシミラクルの知名度を上げた有名なエピソードは「ヒシミラクルおじさん」の存在でしょう。
ヒシミラクルおじさんは消費者金融で借りた50万円をこの年のダービーでネオユニヴァースの単勝に購入し的中させます。翌週の安田記念でダービーで手にした130万円をアグネスデジタルの単勝に注ぎ込み1222万円を手にしました。
そして、この宝塚記念で6番人気のヒシミラクルの単勝に安田記念で得た配当を全て注ぎ込み2億円近くもの配当を手にしたのです。現在、ヒシミラクルおじさんが何をしているかは全く分かりませんが、春のG1を3連勝したこととつぎ込んだ金額が金額だったことから多くの競馬関係者の間でも話題になりました。その話題性はヒシミラクル鞍上の角田騎手をして「僕以上の勝負師」と言わせるほどでした。
話を戻します。
秋の初戦で挑んだ宝塚記念を持って春競馬は終了しました。シンボリクリスエス陣営は秋のローテーションを発表します。前年同様天皇賞(秋)から始動しジャパンカップ、そして有馬記念と古馬の中距離G1路線にペリエ騎手とともに挑むと発表されました。
古馬のG1三連戦
シンボリクリスエスの秋の初戦は天皇賞(秋)です。天皇賞(秋)のステップレースとして毎日王冠やオールカマー、京都大賞典が存在しますがぶっつけで挑むこととなりました。
例年豪華メンバーが揃う天皇賞(秋)はこの年もアグネスデジタアルやローエングリンといったメンバーが揃いました。
天皇賞(秋)では不利と言われる大外18番を引いたにも関わらず1番人気に支持されたシンボリクリスエス。スタートして果敢に前を奪おうとしましたが枠が枠だったため、ハナに近い位置での競馬は苦しく、中段馬群での競馬を余儀なくされました。
しかし、逃げるローエングリンが前半1000mを56秒台で通過したことが救いとなり、差し切りしやすい競馬になったのです。前で逃げるローエングリンを残り200mでかわして先頭に立つとそのまま後続を突き放してゴール板を目指します。最後方から追い込みを仕掛けたツルマルボーイに迫られるもそれを交わして1馬身半差でゴール。見事秋の初戦を制したのです。
秋の2戦目はジャパンカップです。海外勢はもちろんのこと、昨年の有馬記念で思わぬ伏兵として台頭したタップダンスシチーも参戦しました。
レースはタップダンスシチーがハナを切り、主導権を握ります。シンボリクリスエスは8番手くらいの位置での競馬となりました。前走天皇賞(秋)ほどペースは速くなく1000m通過タイムは61.9秒でした。
直線に入ってもタップダンスシチーのペースは一切衰えることなくそのまま逃げ切りを図ります。2番手で競馬をしていたこの年の菊花賞馬ザッツザプレンティも後続からの追撃を凌ぎます。シンボリクリスエスは2頭を捕らえにかかりますが完全に抜けたタップダンスシチーには届かず、また、粘りづよいザッツザプレンティもとらえきれず3着に敗れてしまいました。
秋の最終戦は有馬記念です。このレースがシンボリクリスエスの引退レースとなります。
引退レースということもあり1番人気に支持されたシンボリクリスエス。2番人気は当時3歳馬のゼンノロブロイでした。
ゼンノロブロイは条件戦である山吹賞から青葉賞を制してダービーの切符をつかむとダービーで先行策を取り、ネオユニヴァースの2着に入選した馬で、シンボリクリスエスの3歳の頃と成績が似ています。
最後のクラシックとなった菊花賞は4着だったためG1タイトルは手にできませんでしたが大舞台でも上位争いを繰り広げたことから2番人気にまで支持されることとなりました。
なお、ゼンノロブロイはシンボリクリスエスが引退した翌年の秋の古馬中距離G1を3連勝する快挙を成し遂げます。
シンボリクリスエスにとってラストランとなる有馬記念がスタートしました。ジャパンカップを圧勝したタップダンスシチーがハナを主張するかに思えましたが、この年の菊花賞馬であるザッツザプレンティがハナを切る形でレースを進行します。続いてタップダンスシチー、ゼンノロブロイと続き、シンボリクリスエスは5番手くらいの位置で競馬をすることとなりました。
レースが動いたのは最後の3コーナーから4コーナーにかけてです。先行していたシンボリクリスエスがコーナーで動き出したのです。武豊騎手のリンカーン、ゼンノロブロイも続いて動き出します。
直線でタップダンスシチー、ザッツザプレンティを捕らえるとシンボリクリスエスは後続をものともせずゴール板まで駆け抜けます。その末脚は前で競馬をしていたタップダンスシチーやザッツザプレンティにはもちろんのこと、2番人気に支持されたゼンノロブロイもお手上げでした。
後続をみるみる突き放したシンボリクリスエスはかつての三冠馬であるシンボリルドルフを彷彿させるような競馬を見せつけ2着馬リンカーンに9馬身差をつけて見事勝利!
史上4頭目となる有馬記念連覇を成し遂げ有終の美を飾ったのです!
タイムは2.30.1。
これは91年にダイユウサクが有馬記念で出したレコードタイムを0.1秒更新しました。
また、有馬記念史上最大の9馬身差を突き放しての勝ちっぷりも多くの関係者が評価しました。主戦を務めたペリエ騎手曰く「(凱旋門賞馬である)パントレセレブルに匹敵するベストホース」とコメントしました。
オグリキャップが去り、テイエムオペラオーが去ったことで競馬ブームが下火になりつつあった競馬界を抜群の安定感によって多くの人から支持されたシンボリクリスエスはこの日、中山競馬場で引退式が行われました。
翌年、シンボリクリスエスはこの年の年度代表馬に選出されました。
代表産駒
2004年に社台スタリオンステーションに到着したシンボリクリスエスは種牡馬として第二の人生を歩みます。
活躍した産駒は少ないものの
フェブラリーステークスを制したサクセスブロッケン
安田記念の勝ち馬ストロングリターン
菊花賞とジャパンカップを制したエピファネイア
3歳ダート戦線を無双したルヴァンスレーヴ
を輩出しています。
産駒は中距離実績の高い馬が豊富で、瞬発性よりもスタミナを活かした持久戦が得意な馬が多いですね。
また、芝でもダートでもG1ホースを輩出していて馬場問わず活躍している馬が多いです。
ブルードメアサイヤー(母型の父)になってからも優秀な産駒を輩出しています。
ダービーと天皇賞(秋)を制したレイデオロ
レイデオロが制したダービーで3着に入選した青葉賞馬アドミラブル
エリザベス女王杯で2着に入選したシングウィズジョイ
障害の絶対王者オジュウチョウサン
現在も活躍しているG1ホースのブルードメアサイヤーとしてシンボリクリスエスの血はいまも引き継がれています。
まとめ
シンボリクリスエスの競走馬生活における戦績をまとめさせていただきました。
2000年初頭の馬ということもあり最近になって競馬を始めた方には馴染みがない馬かもしれませんが、抜群の安定感は当時下火に差し掛かっていた多くの競馬ファンの心を掴んだ事実は忘れられませんね。
シンボリクリスエスがつないだ競馬ファンは2005年に隕石が降るかの如く現れたディープインパクトの存在によって競馬ファン、競馬関係者のみならず、多くの一般人をも巻き込んで新たな競馬ブームを巻き起こすこととなったのです。