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サンデーサイレンスの半生に迫る!日本の競馬界に多大なる影響を与えた伝説の名馬

2009年 サンデーサイレンス 社台スタリオンステーションにて

はのい / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)

 

サンデーサイレンス。

 

日本競馬界に大いなる影響をもたらした種牡馬としてのイメージが非常に強いですね。競走馬時代のサンデーサイレンスの印象がどうしても薄く感じてしまいます。

 

もしもサンデーサイレンスが日本国内の競走馬であったのなら、競走馬としての注目度も違っていたでしょう。しかし、サンデーサイレンスは外国馬、それもアメリカ出身のサラブレッドでした。

 

アメリカはダートが本場です。芝至上主義である日本人にとって必然的にアメリカの競馬は馴染みが薄くなってしまうのです。

 

しかし、アメリカ国内でサンデーサイレンスが活躍したことが結果的に種牡馬となり、日本競馬を席巻したことに繋がるわけで、種牡馬としてのサンデーサイレンス、はたまたサンデーサイレンスの仔、孫が現在、種牡馬やターフで活躍しているのは現役時代のサンデーサイレンスの活躍があったからこそです。

 

当記事では種牡馬としてのイメージの強いサンデーサイレンスではなく、現役時代のサンデーサイレンスにスポットを当てていきたいと思います。

 

生誕

サンデーサイレンスは1985年にアメリカのケンタッキー州で誕生しました。

 

父はユナイテッドネイションズハンデキャップを制したアメリカの競走馬であるヘイロー母は現役時代に12勝をあげたウェッシングウェルです。こうして、後に大型種牡馬としてアジアの極東を席巻するサンデーサイレンスは誕生しました。

 

しかし、幼少期のサンデーサイレンスの関係者の評価は非常に悪かったのです。なぜなら後肢の飛節(足首)が内側に湾曲していて両後肢にくっつきそうになるほどだったのです。

 

また、見た目も貧相でバランスの取れていない馬体だったために一部の関係者からは

「足がひょろ長くて、上体は華奢」

「(見た目が)あんなひどい馬は見たことがない」

「目にするのも不愉快」

といったように関係者からは酷評の嵐でした。

 

その影響もありセレクトセールへの出品すら許されない状態でした。結局、一般部門に出品されたサンデーサイレンスは1万ドルで買値がついたもののストーンファームの経営者であるハンコック氏が安すぎると判断し、1万7000ドルで買い戻します。そしてハンコック氏が経営するストーンファームの所有馬となりました。

 

生死をさまよう

デビュー前のサンデーサイレンスは2度、大きな事故に合っています。

 

ひとつは幼少期に腸疾患にかかったのです。ウイルス性の腸疾患にかかったサンデーサイレンスは酷い下痢に悩まされ、生死をさまようほどでした。

 

一部の関係者はサンデーサイレンスを見捨てるような動きもありましたが、その他の関係者の尽力の元、毎日23リットルの水もの点滴を打ち続け、なんとか死を逃れました。

 

もう一つは馬運車事故です。サンデーサイレンスを運んでいた馬運車の運転手が突如心臓疾患を起こして馬運車が大きく転倒してしまいます。

 

馬運車の運転手、馬運車で運ばれていたサンデーサイレンス以外の馬は死亡してしまい、サンデーサイレンスも重傷を負いましたが幸いにも競争能力を失うほどではなく、獣医師の賢明な治療のために2週間の入院を経て見事復活しました。

 

デビュー

オークションで散々な評価を浴び、2度の生命の危機を乗り越えたサンデーサイレンスは1988年にデビューします。

 

管理していたウィッティンガム氏は調教をするにつれ、サンデーサイレンスは走ると確信しました。2度の生命危機を乗り越えたサンデーサイレンスは確かに力強く走っていたのです。

 

デビュー戦こそ2着に敗れてしまいましたが次のレースで初勝利を飾ります。一般競走に昇格してからも2着に健闘しました。

 

翌1989年。この年の初戦となった一般競走を勝ったサンデーサイレンスは続くサンフェリペステークスを勝利し初重賞を飾ります。

 

続くG1サンタアニタダービーで2着馬に11馬身差突き放して完勝し、三歳馬の大舞台となるケンタッキーダービーに駒を進めます。

 

イージーゴア

破竹の勢いでケンタッキーダービーまで駒を進めたサンデーサイレンス。ここでサンデーサイレンスの最大のライバルとなるイージーゴアと初めて対決することとなります。

 

イージーゴアはアリダーの仔で、近親馬、兄弟に活躍馬がいる良血馬です。デビュー前から多くの関係者が太鼓判を推しました。

 

イージーゴアはデビューこそ2着に敗れてしまいましたがそこから2連勝を飾るとG1カウディンステークスも3馬身差の勝利。続くシャウペンステークスも4馬身差の勝利と華々しい勝ちっぷりを見せます。

 

クラシックの年になってもレースで結果を残して大舞台であるケンタッキーダービーに駒を進めます。期待に応えたイージーゴアと下馬評を覆したサンデーサイレンスがこのケンタッキーダービーで初めて激突することで多くの関係者がレースの動向に注目しました。

 

しかし、レースがスタートするとゲート直後にサンデーサイレンスは他馬に接触し体制を崩しますが、そこから巻き返し、1番人気に支持されたイージーゴアを捕らえて1馬身半差の完勝劇を遂げ、見事ケンタッキーダービーを制することとなります。デビュー前から散々な評価だったサンデーサイレンスはレースで見事汚名返上を果たし、多くの関係者がサンデーサイレンスを認めることとなったのです。

 

ライバルであるイージーゴアとはその後もレースで戦いました。ケンタッキーダービーの直後に開催されたプリーネスステークスでもイージーゴアと2戦目を戦うこととなりましたがサンデーサイレンスはイージーゴアを抑えて優勝します。

 

イージーゴアとの3戦目となったベルモントステークスでは逆にイージーゴアに8馬身差の圧勝劇で2着に敗れてしまいましたがイージーゴアとの4戦目となったBCクラシックではクビ差でイージーゴアを捻じ伏せ見事勝利します。

 

イージーゴアとの戦いでも優勢を保ち、今後も競馬界を引っ張る存在となりえたサンデーサイレンスでしたがBCクラシックの直後にサンデーサイレンスは膝の剥離骨折を発症してしまいます。休養に入り、この年は幕を下ろします。

 

連対率100%

1990年。骨折の治療も無事に済み7か月ぶりにサンデーサイレンスはターフに帰ってきました。

 

この年の初戦となったのは6月に開催されたカリフォルニアンステークスです。サンデーサイレンスは逃げる競馬で見事勝利を納め、古馬になってからも更なる飛越が下されるように思いました。

 

カリフォルニアンステークスから中2週で挑んだハリウッドゴールドカップこそ重斤量のために2着に敗れてしまいましたがその後、イージーゴアとの対決でという名目で企画された特別招待レースへの出走に向けて調整されます。

 

しかし、ライバルであるイージーゴアが脚の骨折のために引退してしまい、対決が不可能となってしまいました。それでもサンデーサイレンスはそこを目標に調整を重ね、レースを迎えます。

 

ここで、サンデーサイレンスに悲劇が訪れます。レース直前に左前脚をかばう素振りをサンデーサイレンスが見せたのです。診断の結果、馬の体重を支えるのに不可欠と言われる靭帯に断裂が見つかりました。

 

結局、そのレースの出走は叶うことなく、サンデーサイレンスは引退することとなったのです。生涯戦績14戦9勝。2着5回連対率100%で引退することとなりました。

 

種牡馬として

(写真はイメージです)

 

これほどの戦績を残したサンデーサイレンスは引退後、巨大なシンジケートが組まれるように思えるでしょう。

 

しかし、サンデーサイレンスの種牡馬としての前評判は決して、いや、それどころか全く高くなかったのです。なぜならヘイロー産駒の種牡馬がアメリカで活躍しなかったからです。

 

いくら競走馬として結果を残していてもその血統筋が活躍しなければ評価が上がらないのが当時のアメリカの競馬界でした。

 

競走馬としては一流の名馬でしたが種牡馬としては三流以下…そんなサンデーサイレンスに目を付けたのが社台ファームの総帥ともいわれる吉田善哉氏でした。吉田氏がサンデーサイレンスの購入に踏み切った理由についてはいくつかの諸説がありますが、社台ファームで管理していた種牡馬ディクタスが亡くなったことでその後継者が必要になったという説があります。

 

また、社台ファームで管理していたノーザンテースト、リアルシャダイといった馬の仔が世で活躍することで近親の度合いが強くなり、それを解消するために外国の馬の購入に踏み切ったという話もあります。

 

種牡馬として途方に暮れていたサンデーサイレンスに注目したのがアジアの極東である日本であることに関係者は驚きを隠せませんでしたがサンデーサイレンスを管理していたハンコック氏は昔から吉田氏との親交があったために売却に踏み切ります。様々の理由を抱えながらもサンデーサイレンスは日本に輸入されることとなりました。

 

しかし、サンデーサイレンスの購入を決断した吉田善哉氏はサンデーサイレンスの仔の活躍を見ることなく1993年に亡くなりました。そして、日本に輸入されたサンデーサイレンスは日本どころか世界中を多くの競馬関係者を唸らせるほどの活躍を見せることとなるのです。

 

最後

日本に輸入されたサンデーサイレンスは来日後、種牡馬として、第二の人生を送ります。アメリカで活躍したサンデーサイレンスというヘイロー系の産駒の活躍がどう転ぶか、多くの関係者が注目します。

 

初年度産駒がデビューーしたのは1994年です。フジキセキが朝日杯3歳ステークスを制し、タヤスツヨシが日本ダービーを制し、初年度産駒からいきなりG1ホースが現れました。

 

サンデーサイレンスの2年度産駒となるバブルガムフェローが朝日杯3歳ステークスを制し、イシノサンデーが皐月賞、ダンスインザダークが菊花賞を制すると、わずか2年でサンデーサイレンス産駒は牡馬のクラシックG1を制してしまったのです。

 

G1だけでなく、一般競走でもそのほかの重賞でも結果を残したことでリーディングサイヤーを獲得したサンデーサイレンスに多くの関係者がサンデーサイレンスとの交配を望みました。

 

サンデーサイレンスは多忙を極めます。年間100頭当たり前、ある年は200頭を超す繁殖牝馬と交配を繰り返すほどとなります。それでもサンデーサイレンスの仔は大舞台で大活躍をします。

 

特に、2002年に誕生したディープインパクトクラシック3冠をはじめ、古馬となってからも数々の大舞台で大活躍を果たし、日本中にその名を轟かせるほどとなりました。その活躍から、さらにサンデーサイレンスの活躍に期待がかかりましたが種牡馬として活躍している最中に蹄葉炎を発症し、亡くなりました。

 

ちょうどディープインパクトが活躍することを耳にすることなく引退することとなったのです。ディープインパクトは2006年の有馬記念を最後に4歳で競走馬を引退することとなりましたがポストサンデーサイレンスということも影響していたのかもしれません。

 

まとめ

サンデーサイレンスはデビュー前から散々な評価を下されましたがターフに出走すると一変。同期のライバルであるイージーゴア相手にも善戦し、通算成績14戦9勝と素晴らしい活躍を遂げました。

 

アメリカで種牡馬として評価されなかったことが結果的に日本に導入されるきっかけとなり、いざ種牡馬として活躍した途端に産駒の多くが活躍しました。競走馬としても、種牡馬としても汚名返上を果たした名馬なのです。

 

サンデーサイレンスは2002年に亡くなりましたがポストサンデーサイレンスとしてディープインパクト、フジキセキ、ステイゴールド、ハーツクライ、ネオユニヴァースといった種牡馬が活躍し、現在ではサンデーサイレンスからして孫にあたる馬も種牡馬として活躍しています。

 

1980年代に下馬評を覆し活躍したサンデーサイレンスの血は世から途切れることはないでしょう。サンデーサイレンスの血は今後も受け継がれるのです。

 

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