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日本で種牡馬として活躍したトニービンの血統、生い立ち

日本人にとって、トニービンとは偉大なる種牡馬の一頭というイメージが強いでしょう。

 

種牡馬として大成功したのはいうまでもありませんが、現役時代のトニービンについて詳しい方は意外と少ないと思います。今回はトニービンの生涯についてまとめました。

 

トニービンの血統

トニービンは1983年にアイルランドで誕生しました。父はイギリスで短距離で結果を残していたカンパラです。母はセヴァーンブリッジでイギリスで1勝を挙げています。

 

トニービンの父であるカンパラは現役時代、短距離レースで走っていました。現役時代は大きなタイトルを獲得していませんが、産駒の一頭であるトニービンが後に世界最高峰ともいえる凱旋門賞を手にしたことで、競走馬時代以上に種牡馬として大成することとなりました。

 

トニービンが日本国内に輸入され、トニービン産駒が活躍の兆しを見せるとトニービンの父であるカンパラも日本に輸入されましたがそのころのカンパラは高齢馬となっていたため、ほとんど活躍することはありませんでした。

 

イタリアでデビュー

トニービンのデビューはイタリアでした。

 

ヨーロッパの競馬のレベルは国ごとに違っていましたがイタリアの競馬はヨーロッパの中でもそこまで高くありません。トニービンはレベルの高いイギリスやアイルランド・フランスではなく、レベルの低いイタリアでデビューすることとなりました。

 

これは日本で例えるなら中央競馬(JRA)と地方競馬のようなものです。

 

競走馬はレースに勝つために産まれてきた経済動物なので、勝てる舞台を見出す必要があります。地方競馬でデビューする馬は数多く存在しますが地方よりも中央のほうが勝利したときの賞金が高いのはいうまでもありません。地方でデビューする馬は言い換えれば中央で勝ち切るのは困難だと判断された馬なのです。

 

これはヨーロッパにおいても同じことで、格式や賞金の高い英仏ではなく、レベルの低いイタリアでデビューしたトニービンの評価は決して高いものではなかったのです。しかしながらイタリアというヨーロッパでは決してレベルの高くない国でトニービンは走ります。

 

デビューした2歳時の最終成績は4戦2勝3歳の成績は5戦2勝でした。

 

トニービンが走ったレースには重賞競走も含まれていましたが3歳の時点で重賞タイトルを手にすることはできませんでした。トニービンが重賞タイトルを手にするのは4歳になってからでした。

 

4歳 飛躍のトニービン

3歳の頃はあと一歩のところで重賞タイトルに届かなかったのですが4歳になってから一気に出世します。

 

初戦に選んだサルナノ賞を7馬身差の快勝すると続くエリントン賞(G3)を勝ち切り初の重賞タイトルを獲得します。待望の重賞タイトルを引っ提げて挑んだのは伊共和国大統領賞(G1)。エリントン賞からわずか5日後となったレースで2着馬に2馬身差をつけて見事G1ホースの仲間入りを果たしました。

 

続いて出走したのは6月に開催されるミラノ大賞典(G1)でした。ここでもこの年のダービー3着馬であるアワーエリアソを破って優勝しました。

 

イタリア国内でG1タイトルを2つ獲得し、現役でもトップホースとなったトニービンは海外遠征に挑むこととなります。最初に選んだのはフランスのサンクルー大賞(G1)でした。初となる競馬強豪国でのレースとなりましたがイギリスのムーンマッドレスの2着に健闘し、イタリア最強馬の威厳を証明したのです。

 

続いてトニービンはドーバー海峡を越え、イギリス遠征に向かいます。挑戦するレースはキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスカップです。

 

ここでは英ダービー馬のリファレンスポイント、G1タイトルを5つ獲得していたトリプティクといった相手と戦うことになります。ただでさえメンバーレベルが高く、また、イギリスへ向かう飛行機内で暴れたことでトニービンは負傷していました。万全ではない状況でレースに出走しましたが英ダービー馬であるリファレンスポイントに突き放され5着に敗れてしまいました。

 

その後はイタリアへ戻り、リステッド競走を圧勝します。

 

その後、陣営は思い切って凱旋門賞(G1)に挑むことを決意しました。このころには登録が締め切られていたため追加登録料を支払って登録したのです。凱旋門賞はフランスのG1レースで世界中のホースマンが夢見る舞台です。

 

トニービンのイタリアにおける活躍は世界中に知れ渡っていましたが、英仏と比較すると数枚落ちるイタリア競馬での評価は高くなかったのです。

 

ところが、追加料金を支払って参戦した凱旋門賞でなんと2着に入選しました。勝ち馬トランポリノには2馬身差突き放されてしまいましたが、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスカップで先着を許したリファレンスポイントやトリプティクに先着したことで、欧州の一流競馬国相手にも戦えることが証明されたのです。

 

その後はイタリアに帰国し、イタリア国内で競馬をします。

 

この年の成績は10戦して6勝、2着は3回と飛躍の年となりました。

 

5歳 目指すは凱旋門賞

古馬になって素晴らしい成長を遂げたトニービンのこの年の最大目標は凱旋門賞制覇でした。

 

年明け後数戦はイタリア国内のレースに出走しました。いずれのレースもぶっちぎりの勝利でした。トニービンの勝ちっぷりは舌を巻くほどで、国内では敵なしとといっても過言ではありません。再び海外遠征に踏み切ったのです。

 

最初に挑んだのはイギリスのキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスカップです。昨年のリベンジといわんばかりに挑戦しましたが3着に敗れてしまいます。やはり英仏のレベルはイタリアに比べるとレベルが高かったのですが、それでも凱旋門賞制覇の夢は絶たれません。

 

凱旋門賞に向けて調整されるトニービンでしたがここでアクシデントが発生します。故障が判明したのです。

 

幸いにも怪我は軽く、夏の時期に判明したものなので休養を挟み、秋の凱旋門賞に間に合いました。しかしながら凱旋門賞にぶっつけで挑むのは無謀ということで国内のG3戦に叩きで挑みます。叩きとはいえ国内では敵のいないトニービン。2着馬に4馬身差をつけ見事勝ち切ります。そして、それからわずか1週間後に開催される凱旋門賞に挑むことになりました。

 

この年の凱旋門賞も世界中から最高の栄誉を求めて参戦しました。

 

G1タイトルを引っ提げながら5連勝中のムトト

英ダービー、愛ダービー馬のカヤージ

英オークス、愛オークス馬のディミニュエンド

ヴェルメイユ賞、クレオパトル賞を制したインディアンローズ

 

このほかG1・重賞タイトルを手にしたホースが集まり、最終的には23頭立てで開催されることとなります。

 

イタリアではもはや無双していたトニービンも英仏のレースで勝ち切れていないことから5番人気まで評価を落としました。世界最高の名誉は誰の手に渡るのか。レースがスタートしました。

 

レースは前に行く馬と後ろから脚を溜める馬とで、2グループに別れました。トニービンは後方待機組でいつでも脚が使えるよう虎視眈々と仕掛けどころを待ちます。1番人気に支持された5連勝中のムトトも後ろで構えました。

 

前半がハイペースとなったため、直線で先行集団が失速し、それらを捕らえるようにトニービンが追い込みを仕掛けます。トニービンが追い込みを始めた直後、5連勝中のムトトも同じように動き出します。

 

トニービンとムトトの末脚勝負となりましたが最後の最後、トニービンがムトトをクビ差で押さえて見事優勝したのです。

 

トニービンの凱旋門制覇に祖国イタリアの多くの競馬ファンは歓喜に震えました。イタリアの凱旋門賞制覇は61年のモルヴェド以来27年ぶりの快挙だったからです。

 

ラストレース ジャパンカップ

イタリアのトニービンが凱旋門賞を制したニュースは日本国内でも広まりました。それと同時に日本の競馬関係者を驚かせる情報が入ってきたのです。

 

トニービンのジャパンカップ参戦です。凱旋門賞を制した馬はジャパンカップには見向きもしないのがこのころのジャパンカップの通例となっていました。ところがトニービンは凱旋門制覇後、一度イタリアに帰り、すぐにジャパンカップに照準を定めたのです。凱旋門馬のジャパンカップの参戦は実はこのトニービンが最初だったのです。

 

トニービンを筆頭に海外の有力馬がジャパンカップ制覇を目標に続々と出馬を表明しました。

 

南半球最強馬であるボーンクラッシャー

ドイツの1000ギニー勝馬のコンドル

愛チャンピオンシップ2着のシェイディハイツ

凱旋門賞馬として初めてジャパンカップに挑むトニービン

 

海外勢に対抗する国内馬の層も厚く

 

中長距離を8連勝中の芦毛の怪物タマモクロス

同じく芦毛で地方笠松から中央に乗り込んできたオグリキャップ

重賞8勝馬のスズパレード

皐月賞・菊花賞で2着のゴールドシチー。

 

国内外問わず、多くの実力馬が府中に揃ったのです。

 

最終的な人気は8連勝中のタマモクロスが1番人気に支持されましたが凱旋門賞を制したトニービンも2番人気に支持されました。

 

連勝街道に乗っていたタマモクロスが勝つのか、もう一頭の芦毛のヒーローオグリキャップが勝つのか、それとも凱旋門賞馬が日本でも席巻するのか、注目されましたがレースは予想外の展開を迎えました。

 

レースが発走し、トニービンはかつてのライバルを蹴散らしてきた後方待機で構える競馬をします。仕掛けどころも文句ありませんでしたがイマイチ伸びません。

 

この年のジャパンカップはトニービン同様後方で待機していたアメリカの競走馬ペイザバトラーが鋭い切れ脚で優勝芦毛のタマモクロス、オグリキャップは2.3着に敗れてしまい、凱旋門賞馬トニービンも5着に敗れてしまいました。

 

また、レース中に骨折が判明したため、このジャパンカップを最後に現役を引退することとなりました。

 

種牡馬として

凱旋門賞を制した矢先、日本のレースで敗退したうえ、レース中の骨折により引退を余儀なくされたトニービン。しかしながら、日本でも有名な競走馬育成組織である社台ファームがトニービンの活躍に目をつけていました。

 

トニービンの引退後、真っ先に社台ファームがトニービンの購入に踏み切ります。約10億4500万円で購入されたトニービンは早速シンジゲートが組まれることになりましたが大型種牡馬として名高いディープインパクトやロードカナロアのように最初から期待されていたわけではなく、初年度の配合数は50頭ほどだったのです。

 

ところが初年度産駒のベガが93年の桜花賞とオークスを制し、同じく初年度産駒のウイニングチケットがダービーを制したことで一躍トニービンの種牡馬価値が上がりました。ベガとウイニングチケットの活躍により94年からは交配数が100頭を突破します。

 

それ以降も毎年100頭以上の馬と交配し、その間にマイル女王であるノースフライト、オークスと天皇賞(秋)を制したエアグルーヴ、ダービーとジャパンカップを制したジャングルポケットを輩出しました。

 

種牡馬として実りのある生活を送っていましたが2000年の3月に急性心不全のため、この世を去ることとなりました。

 

産駒の特徴

現役時代のトニービンと同じく後方からの競馬を得意とする馬が多いのが特徴です。

 

スピードや瞬発性は高くはないですがジワリと末脚を使えるロングスパートを得意とする馬が多く、直線の長い新潟や東京で好走する馬が多かったです。

 

逆に直線距離の短い中山では大した活躍が見られませんでした。産駒でG1タイトルを手にした馬は9頭、獲得したG1タイトル数は13個でそのうちの11個が東京競馬場のものです。トニービンの死から6年後に新設されたヴィクトリアマイルを除く東京競馬場における芝のG1タイトルは産駒が全て獲得しました。

 

ポストトニービンとしては晩年に産まれたジャングルポケットがオーケンブルースリやトーセンジョーダン、アウォーディーを輩出していてそこそこの成績を収めています。

 

トニービンの影響は母の父としてのほうが強いでしょう。

 

母父トニービンの有名な馬は

ハーツクライ

アドマイヤベガ

アドマイヤドン

ルーラーシップ

ヴィクトリー

カレンチャン

コパノリチャード

アップトゥデイト

 

芝・ダート・障害・短距離・長距離と舞台問わず活躍している産駒が多いですね。ハーツクライやアドマイヤドン、ルーラーシップは種牡馬としても活躍していますしトニービンの血が絶えることは当分ないでしょう。

 

まとめ

以上がトニービンの生涯となります。

 

日本では種牡馬としてのイメージが強いトニービンですが、現役時代は競馬開催国でもマイナーなイタリアの馬だったのは意外でしょう。

 

また、日本のジャパンカップが引退の原因になったのと同時に、日本の種牡馬生活の始まりとなったのはある意味数奇な運命だったかもしれません。

 

現在も母の父として活躍するトニービン。その血は多くの産駒に継がれていて、途切れることはないでしょうね。

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