種牡馬時代のトウカイテイオー(2000年9月23日撮影)
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90年代前半には、当代きってのイケメンホース、トウカイテイオーがいました。
イケメンや貴公子と呼ばれたトウカイテイオーの半生を、血統面から、無敗で制した日本ダービーや奇跡の復活を遂げた有馬記念、引退後まで様子をまとめてみました。
貴公子・トウカイテイオーの血統
トウカイテイオーは1988年4月20日、新冠の長浜牧場で生を受けました。父は無敗の三冠馬・皇帝シンボリルドルフで、母トウカイナチュラルは、オークス勝ち馬トウカイローマンの妹という血統で、実に魅力的な配合でありました。
父系は、今では世界的に少数派となってしまったサラブレッドの三大始祖につながるパーソロン系です。また、母系は日本ダービーを牝馬で初めて制したヒサトモにつながる血統であります。
また、容姿や気品もよく、「貴公子」の愛称で、イケメンホースとして知られていました。長い前髪がトレードマークで、競馬雑誌に取り上げられることも少なくありませんでした。
日本ダービーを快勝し無敗の二冠馬が誕生するも、骨折が判明
トウカイテイオーは第58代日本ダービー馬であります。また、その年の牡馬クラシック二冠馬でもあります。
それまでのトウカイテイオーは、前年12月の中京競馬場での新馬戦を、松元厩舎の主戦騎手・安田隆行騎手を背に4馬身差つけての快勝で始まり、以降3連勝を飾り、その勝った4つのレースすべて鞭を使わないという完璧なものでした。
牡馬クラシック第1戦の皐月賞では、重賞未勝利の身ながら1番人気に支持され、18番枠から先行し最後の直線で抜け出して快勝という、まさに横綱相撲で1冠を獲得しました。父が3冠馬だったように、この馬にも父子2代三冠馬の期待が膨らみ始めました。
二冠目を目指し迎えた1992年5月26日の日本ダービー当日。これまで同様、安田騎手を背に迎えたトウカイテイオーの枠は20番枠、皐月賞と同じく大外となりました。東京競馬場芝2400mでの大外枠、現在は最多でも18頭立てですが、この時は20頭立てで、その中での大外枠なのでとても不利といえました。
しかし、この時の単勝オッズは1.6倍と、ファンはトウカイテイオーを支持しました。
レースはスタートして6番手につける先行策をとります。終始先団に位置をとり、迎えた直線。馬群の大外から抜け出したトウカイテイオーは他馬との差をどんどん広げ、2着馬に3馬身差をつける快勝を果たし、無敗の二冠馬となりました。まさに文句なしのレースっぷりでした。
そして、場内では「ヤスダコール」が鳴り響き、また、日本ダービーでの8枠の馬が初優勝を決めた瞬間でもありました。現在までに、8枠の馬のダービー馬はトウカイテイオーを含めて4頭しかいません。このレースを勝利したことで、トウカイテイオーの無敗の3冠馬という期待がさらに膨らみました。
しかし、それは叶いませんでした。
レース直後の表彰式の後、競馬場内の出張馬房で歩様が乱れ、レントゲン撮影の結果、左脚に骨折が判明しました。全治6か月ということもあり、3冠目のレース、菊花賞に出走することはなく、トウカイテイオーの1991年のシーズンは怪我によって終わってしまいました。
その年の菊花賞は、日本ダービー2着馬のレオダーバンが制したこともあり、「もし、トウカイテイオーが菊花賞に出られていたら」などのタラレバは、競馬ファンなら多く思ったところでしょう。
奇跡の復活!トウカイテイオーと有馬記念
トウカイテイオーは有馬記念を1年ぶりのレースで勝利したことで名が知られています。現在では調教システムも発達し、長期休養明けの馬が勝つことも以前より増えてきましたが、それでもG1クラスになるとなかなかそういうわけにはいかないことがほとんどです。
そんな中、1年ぶり、しかもG1有馬記念を制したことは偉業ともいえます。その有馬記念から30年近く経つ現在でも、1年ぶりのレースでG1を制した馬は、トウカイテイオーしかいません。
トウカイテイオーは怪我の休養が明けた1992年、今までの主戦だった安田騎手が調教師試験に力を注ぐ関係で、名手・岡部幸雄騎手に鞍上が変わって4戦を走り、ジャパンカップを制しました。
ファン投票1位で挑んだ有馬記念は、岡部騎手がその年の菊花賞馬、ビワハヤヒデとコンビを組んで有馬記念に挑むことが決まっており、トウカイテイオーにはスター騎手・田原成貴騎手が跨ることになりました。
しかし、追い切りは良かったものの、11着と大敗してしまいました。馬体重も大きく減っており、寄生虫駆除の下剤を服用していたことも後に伝えられました。
また、年が明け、左中臀筋を傷めていることも判明し、休養に入ります。宝塚記念に照準を絞るも、骨折が判明し、再度休養。結果的に復帰戦は、前のレースから1年が経った、有馬記念となりました。
1年ぶりのレースということもあり、ファンはおろか、鞍上の田原騎手も不安を口にしていました。実際、最終追い切りでも最後に失速していました。
迎えた当日、トウカイテイオーの単勝オッズは4番人気で、その年の天皇賞(春)を制したライスシャワーや、2冠牝馬ベガよりも人気でしたが、複勝は8番人気、馬連でもトウカイテイオー絡みの馬券は売れていませんでした。パドックでのトウカイテイオーはひょこひょことステップを使ったような独特な歩き方や、ボロ(糞)をして、笑いが起きたときもあったようです。
そんな雰囲気の中で迎えたレース。レースはメジロパーマーが先頭で、トウカイテイオーは中団少し後方に位置をとり、向こう正面で馬群の中から少し位置を上げます。
3、4コーナーでトウカイテイオーは5番手まで位置を上げ、迎えた直線。逃げたメジロパーマーは直線に入って徐々に粘れなくなり、かわって、トウカイテイオーの元の主戦、岡部騎手の跨るビワハヤヒデが先頭に躍り出ます。
ただ、外からトウカイテイオーが迫り、残り200mで2頭の叩き合いとなりました。そして、残り50mくらいでトウカイテイオーが前に出るとそのままゴール。奇跡の復活を果たしました。
この時の単勝配当は4番人気だったこともあり、940円もつきました。ただ、4番人気の馬が勝ったとは思えないほど、中山競馬場は「テイオーコール」や「タバラコール」が鳴り響きました。
翌年、天皇賞(春)に照準を定めて調教が進められていましたが、筋肉痛を発症し、回避。その後、再び左脚に骨折を発症し、引退となりました。結果的に、奇跡の復活を果たした有馬記念がラストランとなりました。
トウカイテイオーの引退後
種牡馬時代のトウカイテイオー
トウカイテイオーは引退後、社台スタリオンステーションで種牡馬入りしました。2冠馬であったこと、有馬記念の激走などから関係者の期待は高く、毎年100頭以上の繁殖牝馬と種付けを行いました。
初めのころは、産駒は目立った成績を残せませんでした。そのため、一時期70頭ほどに種付け頭数が減ってしまいましたが、2001年以降、トウカイポイント、ヤマニンシュクル、ストロングブラッドといったG1馬を出し、種牡馬として一定の結果は残しました。
ただ残念なことに、トウカイポイントは騸馬、ストロングブラッドも種牡馬入りせずに去勢されてしまい、トウカイテイオーの後継種牡馬は生まれませんでした。
シンボリルドルフ、トウカイテイオー、ディープインパクト
これらの馬に対して、どの馬が一番強いのかというのが時々インターネット上で話題になります。80年代最強ホースと、90年代前半を彩ったスターホース、日本近代競馬の結晶といわれた2000年代スーパーホース。
しかしながら、年代が違いすぎることや、それぞれ芝状態が異なっていて、比較するのはとても難しいです。
「あの時の馬場なら」「あのレース条件なら」という妄想は大きく膨らむところですが、正解も不正解もないでしょう。
トウカイテイオーの急死
東京競馬場や函館競馬場に来場してファンを沸かせたり、社台スタリオンステーションでも種付けシーズンや・暑い夏場以外は日中放牧で、私たちファンに姿を見せたりしていました。しかし、2010年冬以降は高齢により、一般公開はなくなり、展示の際に姿が拝見できるくらいになりました。
そして、去る2013年8月30日、心不全のため社台スタリオンステーションで亡くなりました。25歳でした。
競走馬としてクラシック2冠馬もさることながら、有馬記念の奇跡の復活が印象深かったトウカイテイオーは、引退後も含めた生涯25年間、我々競馬ファンを楽しませてくれた一頭であることは間違いありません。
トウカイテイオーの血が父系に残ることがないのが寂しいところですが、競馬はこれからも続いていきます。まだ見ぬドラマチックな瞬間を目に焼き付けたいところです。
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