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レース中の事故で命を落とした悲運の名馬

 

競走馬はレース中にケガをする場合があります。

 

馬は四本脚で立っていないといけない動物ですので、骨折をした脚をかばうと残りの三本の脚に非常に負担がかかり、蹄葉炎という不治の病にかかってしまうのです。

 

そのため、骨折の程度や部位によって立てない状態が続くと思われた場合、安楽死の処分が取られるのです。

 

ここでは過去にそういった故障で命を落とした悲運の馬たちを何頭か紹介します。

 

 

キーストン(1962年~1967年)

 

第32回のダービー馬で、通算25戦18勝。

 

デビューから弥生賞まで6連勝。スプリングSで2着に負け、皐月賞は14着と大敗しましたが、ダービーを勝って世代トップになりました。

 

その後菊花賞2着し、1967年シーズンは8月の函館から4連勝して臨んだのが暮れの阪神大賞典。

 

最後の直線で故障を発症し転倒、落馬。左前脚の完全脱臼で予後不良になりました。

 

この馬が語り継がれているのは、キーストンが転倒後に3本脚で起き上がり、落馬で意識不明だった山本正司騎手のもとに歩み寄り、気遣うように鼻づらをすり合わせていたシーンが有名だからです。

 

自らは物凄い激痛だったであろうにもかかわらず、ずっと一緒に走ってきた山本騎手のところに歩み寄る姿に観戦していたファンは涙したことは容易に推測できますね。

 

 

テンポイント(1973年~1978年)

第75回天皇賞(春)の勝ち馬で、通算18戦11勝。

 

デビューからスプリングSまで5連勝で迎えた皐月賞は、終生のライバル・トウショウボーイに負け2着。

 

その後ダービー・菊花賞に出走するも、7.2着と敗れてクラシックは無冠に終わりました。明けて1977年は初戦の京都記念から初GⅠ制覇の天皇賞(春)まで3連勝。宝塚記念はまたもトウショウボーイに敗れましたが、秋は京都大賞典から有馬記念まで3連勝と、前年より大きく成長しました。

 

翌年、前年の有馬記念で名勝負を演じたライバルトウショウボーイは引退し、今年はテンポイントの年になると誰もが思っていた年明け初戦の日経新春杯。ハンデは今では考えられない66.5キロで出走しましたが、4コーナーで左後脚の開放骨折を発症し競争中止

 

ファンの多かった馬で、その場で安楽死処分にはならず、確率が低いとされながらも折れた足をボルトで固定する手術がなされ、回復に向かうかと思われましたが、蹄葉炎を発症し2か月足らずで亡くなりました。

 

鮮やかな栗毛に、額には流星のような白い部分があり、とても美しい馬体の持ち主だったそうです。

 

>> 流星の貴公子!テンポイントの血統、馬名の由来、宿敵トウショウボーイと現役時代

 

サクラスターオー(1984年~1988年)

第47回の皐月賞、第48回菊花賞の二冠馬で、通算7戦4勝。

 

弥生賞までは3戦1勝と、注目を集める存在ではありませんでしたが、弥生賞を6番人気で勝ち、続く皐月賞も勝利しました。

 

しかし、その後に繋靱帯炎を発症しダービーを断念し休養に入ります。

 

治療を終えた時には既に秋で、ぶっつけで菊花賞に挑まなくてはなりませんでしたが、見事に勝利して二冠馬になりました。

 

そして迎えた有馬記念、4コーナーで左前脚繋靱帯断裂、第一指関節脱臼を発症し競争中止。

 

このレースではその年のダービー馬メリーナイスもスタート直後に落馬しており、異様な雰囲気で終わった有馬記念でした。

 

この馬もテンポイントと同じくすぐに安楽死処分はされず、やはり脚をプレートとボルトで固定する手術が行われましたが、レースから約5か月後に亡くなりました

 

休養明けで菊花賞に勝つなど、能力は相当なものがあったと思われ、たった7戦で去ってしまったのは非常に残念の一言です。

 

 

ライスシャワー(1989年~1995年)

第53回の菊花賞、第111回天皇賞(春)の勝ち馬で、通算25戦6勝。

 

3歳(現2歳)時に2勝して、オープン入りはしていましたが、クラシックの4歳(現3歳)前半はNHK杯までいいところがなく、ダービーも16番人気と全く期待されてませんでしたが、ミホノブルボンの2着に入り高配当をもたらしました。

 

秋になりセントライト記念・京都新聞杯と連続2着になり、確実に力をつけたこの馬は、菊花賞で三冠目前のミホノブルボンをかわし、初GⅠ制覇をしました。

 

翌年、今度は天皇賞(春)でメジロマックイーンの3連覇を阻んで二つ目のGⅠ勝ち。

 

当時はスターホースの記録を止める「マーク屋」などというありがたくない呼び名をつけられたりもしました。

 

その後、斤量面で酷量を背負ったり高速馬場に対応できなかったりで不振が続きますが、7歳(現6歳)の天皇賞(春)で2年ぶりに勝利し復活を遂げます。

 

しかし次走の宝塚記念、3コーナーで左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折を発症し競争中止、馬運車に乗せる事もできずに、コースに幔幕が張られその場で安楽死処分になりました。

 

小さな体でスターホースの敵役と呼ばれ、どことなく影のある存在でしたが、長距離には滅法強い名ステイヤーだったと今でも思います。

 

>> 黒い刺客!ライスシャワーの血統と現役時代、宝塚記念の悲劇

 

サイレンススズカ(1994年~1998年)

第39回宝塚記念の勝ち馬で、通算16戦9勝。

 

サンデーサイレンスの傑作」であり、「歴史に名を遺す逃げ馬」であり「レース中の事故で命を落とした馬」である、劇的なサラブレッドであったと思います。

 

デビューが4歳(現3歳)になってからで、クラシックはダービー(9着)に出走しただけですが、翌5歳(現4歳)から快進撃を始めます。

 

バレンタインS・中山記念と連勝し、小倉大賞典・金鯱賞では連続レコードで4連勝。

 

宝塚記念も勝って休養に入り、秋初戦の毎日王冠でもエルコンドルパサーを寄せ付けず圧勝。2つ目のGⅠ確実とされた天皇賞(秋)で悲劇は起きます。

 

大逃げを打ったサイレンススズカは3コーナー過ぎに左前脚の手根骨粉砕骨折を発症し競争中止。予後不良とされ、安楽死の処分がとられました。

 

近年稀にみるスピードの持ち主で、それ故に脚元に負担がかかっていたのかどうかはわかりませんが、無事に引退してこの馬の仔を見てみたかったという思いがとても強く残っています。

 

サイレンススズカについてはこちらの記事もご覧ください。

>> 永遠の疾風!サイレンススズカの魅力とは?悲劇のレース天皇賞秋

 

ホクトベガ(1990年~1997年)

第18回エリザベス女王杯の勝ち馬で、通算42戦16勝(うち地方9戦9勝)。

 

エリザベス女王杯の勝ち馬ですが、それ以上に地方競馬での強さが印象に残る馬です。

 

クラシック路線には乗りましたが、桜花賞5着・オークス6着と善戦止まりで、エリザベス女王杯を9番人気で勝って初GⅠを取ります。

 

その後、翌年の札幌記念を勝った後から善戦はするものの勝てないレースが続き、6歳(現5歳)の6月、デビュー時に走っていたダートの地方GⅠエンプレス杯に出走し勝利します。

 

その後中央の芝重賞を使いますが勝てず、7歳(現6歳)からは本格的にダート路線に向かい、1月の川崎記念から10月のマイルCS南部杯まで7連勝と向かうところ敵なし。エリザベス女王杯と有馬記念にも出走しましたが、やはり善戦止まりでした。

 

8歳(現7歳)の初戦、川崎記念を連覇し、ついに世界デビューとなったドバイワールドCで悲劇は待っていました。

 

このレースが引退レースと決まっていたホクトベガですが、最終コーナーで脚を取られて転倒し、後続の馬に追突され、左前腕節部複雑骨折を発症

 

予後不良となってしまいました。

 

悲しいのは、現地で安楽死処分になったため、検疫の関係で遺体が日本に帰って来れなかったことです。

 

>> ダート最強馬!?ホクトベガの戦績、ドバイワールドカップでの悲劇と幻の産駒

 

まとめ

こうして悲運の名馬を見てみると、自身のあまりの能力の高さと、サラブレッドが持つ繊細な「ガラスの脚」とを天秤にかけられたような気がしてなりません。

 

なるべくならこういった馬は出て来て欲しくはないですが、どの馬にも起こり得ることであり、宿命と捉えざるをえないというのが感想です。

 

また、忘れてならないのはこうした名馬の悲運の陰で、今まで数えきれないほどの馬が故障→予後不良になっているという事実もある、という事です。

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