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まさに「天馬」の走りを体現した馬!トウショウボーイの血統と歴史に残る有馬記念

トウショウボーイの血統

テスコボーイ

Princely Gift 

Nasrullah 

Blue Gem 

Suncourt 

Hyperion 

Inquisition 

ソシアルバターフライ

Your Host 

Alibhai 

Boudoir 

Wisteria 

Easton 

Blue Cyprus 

 

父:テスコボーイ

イギリス産。で勝利レースはすべて8ハロンである快速馬。

 

母:ソシアルバターフライ

アメリカ産。8戦2勝。

 

トウショウボーイは父からその豊かなスピードを引き継いでいます。

 

皐月賞と菊花賞を勝ったキタノカチドキと並ぶテスコボーイの代表産駒です。

 

勝利GⅠ級レース(騎乗騎手)

 1976年 皐月賞(池上 昌弘)、1976年 有馬記念(武 邦彦)、1977年 宝塚記念(武 邦彦)

 

天馬と呼ばれた馬

 スタミナのある馬をステイヤーと呼びますが、スピードのある馬をヨーロッパでは「フライヤー」と呼びます。

 

これと同じ意味の言葉としては、日本の競馬では「天馬」となりますが、まさに天馬の走りを体現した馬がトウショウボーイでした。

 

豊富なスピードを生かしたレース運びを得意とし、レース中は常に先団に付け、ペースが遅ければ逃げの手に出ることも度々ありました。

 

彼が逃げたレースで数々の名勝負が生まれることになります。

 

伝説の新馬戦を圧勝

 当時の年齢の数え方で明けの4歳の新馬戦でデビュー。

 

調教の好時計が評価されて1番人気でした。

 

レースではスピードの違いで楽々と逃げ切り、2着に3馬身差をつける圧勝。

 

同じ新馬戦で4着がグリーングラス、5着が後に三冠馬ミスターシービー(父:トウショウボーイ)の母となるシービークインでした。

 

後の三冠馬の父と母が同じ出走し、TTG時代を築いたグリーングラスが出走していたことから、この新馬戦は後に「伝説の新馬戦」と呼ばれるようになりました。

 

加賀武見の執念に負けたダービー

 皐月賞で2着のテンポイントに5馬身差をつけて圧勝し、4戦4勝となり「史上最強の皐月賞馬」と言われたトウショウボーイ。

 

皐月賞の次走となったダービーでは当然1番人気に支持されることになりました。

 

レースでは、スタートを決めたトウショウボーイがそのまま逃げの手に出る展開

 

手ごたえ十分で直線の坂を駆け上がってきましたが、ベテラン加賀騎手騎乗のクライムカイザーに前に入られて進路を一旦なくしてしまいました。

 

その後、外に体制を立て直して追い出しクライムカイザーとの差をじりじりと詰めるも2着に終わりました

 

現在のレース審議制度ではどのような採決となるのか何とも言えませんが、直線でトウショウボーイにクライムカイザーの馬体を寄せて、クライムカイザーの闘志に火を付け、何が何でも勝つという加賀騎手の執念にトウショウボーイが負けたレースだったと言えます。

 

騎乗していた池上騎手は当時28歳。

 

メジロアサマで天皇賞は勝っていますが、トップジョッキーではありませんでした。

 

トウショウボーイは次走の札幌記念でも2着となり、以後、騎手は乗り代わりとなり、池上騎手はトウショウボーイに騎乗することはありませんでした。

 

驚異のレコードタイムを叩き出した神戸新聞杯

 自身のスピードを生かし、当時の芝2000mの日本レコードを1秒も短縮する1分58秒92着に5馬身差の圧勝

 

この時点で、4歳の若駒ではなく、古馬としても既にトップクラスの実力を身に付けていたことがうかがえます。

 

2着はダービーで負けたクライムカイザー。

 

このレースで一矢を報いることができました。

 

騎乗は、「天才」福永洋一騎手で、次走の京都新聞杯でも手綱を取りました。

 

古馬としての復帰戦、宝塚記念!トウショウボーイvsテンポイント

 4歳時に出走した有馬記念をレコードで勝ったトウショウボーイは、その後、春シーズンは休養に入りました。

 

そして、復帰初戦に選んだのは宝塚記念でした。

 

6頭立ての少頭数でしたが、出走馬は当時のトップクラスの6頭でした。

 

トウショウボーイをはじめ、天皇賞春を勝ったばかりのテンポイント、菊花賞馬グリーングラス、ダービー馬クライムカイザー、前年の天皇賞秋を勝ったアイフル、後の天皇賞秋の勝ち馬となるホクトボーイという素晴らしいメンバーでした。

 

トウショウボーイは前年の有馬記念勝ちからのぶっつけ本番のローテンションが嫌われて単勝4.2倍の2番人気と、1番人気をテンポイントに奪われることとなりました。

 

レースでは、トウショウボーイがスタート良く先手を取り、自分のペースの逃げに持ち込む展開。

 

徐々にペースを上げていき、後半1000メートルは当時の日本レコードより速い57秒6、上がりは34秒5と破格の時計でまとめ、2着のテンポイントを振り切り勝利を収めました

 

鞍上はターフの魔術師と呼ばれた武邦彦

 

彼の能力を最大限生かしたレースを展開した手腕の高さを垣間見るレースとなりました。

 

名馬3頭で築き上げたTTG時代

 トウショウボーイは、テンポイントとグリーグラスと共に好勝負を繰り広げ、「TTG時代」を築きました。

 

特に、テンポイントとの対決は皐月賞から引退レースとなった2度目の有馬記念まで、幾度と繰り返されることとなりました。

 

この3頭が揃って初めて対戦したのは菊花賞でした。

 

当時の人気はトウショウボーイが単勝1.7倍の1番人気、テンポイントが9.9倍の3番人気、グリーングラスは条件戦を勝ったばかりで52.5倍の12番人気というものでした。

 

結果は、1着グリーングラス、2着テンポイント、3着トウショウボーイ。

 

2回目の有馬記念は、トウショウボーイとテンポイントの2頭の先頭での競り合いがゴールまで続き、有馬記念の名勝負の一つに必ず挙げられるレースです。

 

そのとき、グリーングラスはしっかりと2頭に続き3着を確保しました。

 

トウショウボーイと彼らとの対戦成績を見てみると、対テンポイントは4勝2敗、対グリーングラスは3勝2敗となり、トウショウボーイがスピードを武器にしてそれぞれに対して勝ち越していました。

 

歴史に残る名勝負、有馬記念

 トウショウボーイは、有馬記念に2回出走しています。

 

 1回目は4歳時。

 

菊花賞で3着に負けた後の1976年の有馬記念です。

 

このときは、持ち前のスピードを最大限に生かし、2分34秒0のレコードタイムでテンポイントを下し、勝利しました。

 

 2回目は5歳時。

 

引退レースとなった有馬記念です。

 

当時3200mで行っていたその年の天皇賞秋では、トウショウボーイは2周目の向こう正面で先頭に立ちましたが、グリーングラスとの早すぎる先手争いで共倒れとなり7着と惨敗してしまいました。

 

グリーングラス陣営は有馬記念でトウショウボーイに一矢報いるためには、レースではトウショウボーイには「逃げさせないこと」と考えていました。

 

好敵手テンポイント陣営は、その年の宝塚記念でトウショウボーイに逃げ切りを許した借りを返すべく、考えた作戦は自身が「逃げる」ことでした。

 

トウショウボーイの後ろから競馬をしても勝てないと考えていたのです。

 

 レースでは、そのような各陣営の思惑が交錯するにも関わらず「逃げ宣言」をしていたスピリットスワプスの鼻を叩いて、トウショウボーイがスタートを決めて先頭に立ちました

 

テンポイントもトウショウボーイに逃げさせまいとトウショウボーイの外に馬体を合わせます。

 

そして、テンポイントが前に出ると、トウショウボーイが抜き返します。

 

道中、このような駆け引きが繰り返され、レースはペース無視の完全に先頭2頭のマッチレースとなっていきました。

 

2周目の第4コーナー過ぎの直線で、トウショウボーイの外からテンポイントが最後は伸び、トウショウボーイはテンポイントに3/4馬身差で敗れました。

 

ただ、「世紀に残るマッチレース」で彼の評価が下がることはありませんでした。

 

トウショウボーイ産駒の特徴、代表産駒一覧

 豊富なスピードを引き継いでいるのが産駒の特徴です。

 

マイルの重賞勝ち馬を多く出しています。

 

当時はマイル路線が整備されていなかったため、トウショウボーイ自身がマイル戦線で活躍することはありませんでしたが、現在の競争体系で出走していた場合、どのような走りをしていたのでしょうか。

 

トウショウボーイはマイル戦にはオープン戦に一度出走しており、その時は1分33秒6のレコードで勝利しています。

 

代表産駒としては、やはり三冠馬ミスターシービーが挙げられます。

 

父から引き継いだスピードを追い込みの脚として繰り出し、三冠レースと2000mに短縮されたばかりの天皇賞秋に勝利しました。

 

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