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キーストン 〜 あまりに有名な最期と人馬の絆 〜

キーストンという馬をご存知でしょうか。

 

今から50年以上も前に日本ダービーを勝った馬ですが、その馬と人とのつながり、そしてあまりにも悲しすぎる競走生活としての最期は多くの競馬ファンに語り継がれています。

 

今回は、そのキーストンの半生とその最期についてご紹介します。

 

キーストンの血統、生い立ち

キーストン

1962年3月15日生まれ 牡馬

父:ソロナウェー

母:リットルミッジ

母父:Migoli

馬主:伊藤由五郎

調教師:松田由太郎

主な勝ち鞍:1965 東京優駿

 

父ソロナウェーは競走馬時代はアイルランドで活躍し、アイリッシュ2000ギニーなどのGⅠレースを制しました。その後同国で種牡馬として活躍し、1959年日本中央競馬会がこの馬を購入し日本に輸入されることになります。

 

そして日本でも活躍馬を多く出し、ダービー馬2頭をはじめオークス馬・桜花賞馬なども輩出しました。

 

母のリットルミッジはイギリスから輸入された馬で、ヨーロッパの血を強く受け継ぐ血統背景でした。

 

ただ幼少時は、体も非常に小さく歩行もきれいなものではなかったので、競走馬としてはあまり期待されずデビュー戦を迎えます。

 

3歳、無傷の5連勝

キーストンは1964年の7月、函館競馬場でデビュー戦を迎えます。そこから勝利を重ね、最終的に3歳(現2歳)時を無傷の5連勝で終え、そのうち3勝がレコード勝ちという圧倒的な強さを見せました。

 

4歳、初めての敗戦と皐月賞での挫折

3か月の休養を挟み4歳(現3歳)になったキーストンは、前哨戦の弥生賞を3馬身差で勝利を収めますが、次走のスプリングステークスでは圧倒的な一番人気に支持されながらも、ダイコーターの2着となり、初めての敗戦を味わいます。

 

そして、ダイコーターと再度対戦した皐月賞では2番人気に支持されますが、マイナス14キロの馬体重が影響して14着に大敗してしまいます。

 

ただ、このレースを見たオーナーは未熟な山本騎手のせいだと大激怒し、乗り替わりを命じます。しかし、松田調教師が「キーストンと一番相性がいいのは山本だ」と主張し、ダービーも引き続き山本騎手で挑むことになりました。

 

距離不安説を覆したダービー制覇

皐月賞の後、キーストンは体調を取り戻して日本ダービーを迎えますが、皐月賞で14着に大きく敗れてしまったことと、 父ソロナウェーが短距離中心で活躍していたことから、皐月賞馬ダイコーターの2番人気に甘んじることになります。

 

しかし、レースでは軽快に逃げたキーストンが不良馬場を味方につけ、ダイコーターの追撃を振り切り見事、日本ダービー制覇を成し遂げます。そして、この馬の主戦を務めた山本正司騎手は、騎手生活で最初で最後の八大競走制覇となりました。

 

秋の菊花賞ではダイコーターの2着に敗れてしまいますが、クラシック三冠競走のすべてで連対する活躍を見せました。

 

5歳、勝ちはするも…

5歳(現4歳)時は、4戦2勝と高い勝率をおさめはしますが、春の天皇賞では2番人気に支持されながらも5着に敗れ、大レースでの勝利に手は届きませんでした。

 

あまりにも有名な最期、阪神大賞典

6歳(現5歳)になったキーストンは、初戦の函館でのオープン競走で2着に敗れますが、そこから4連勝を収めます。そして、長く語り継がれる阪神大賞典で久々の重賞勝利に挑戦します。

 

当時は12月に阪神大賞典が行われており、多くの有力馬たちが年末の有馬記念への出走を表明し、出走頭数はわずか5頭となり、キーストンの勝利が濃厚という下馬評の中でレースのゲートが開きました。

 

いつものように軽快に逃げたキーストンは最後の直線コースも楽な手応えで入り、多くのファンがその勝利を確信しました。しかし、ゴールまで残り300m地点でキーストンは故障発生し落馬、競走中止となってしまいます。

 

山本騎手を心配して近づく、キーストン

落馬の際に投げ出された山本騎手は頭を強打して脳震盪を起こしてしまったため、一時的に意識を失ってしまいます。キーストンも左前脚を故障してしまい、三本脚でしか歩けない状態になっていました。

 

しかし、キーストンは意識を失っている山本騎手を心配し、三本脚の状態で近づいていき、自身の鼻を山本騎手に近づけて気遣うような素振りをしました。怪我をした脚からは血が吹き出しており、耐え難い痛みであるのは安易に想像できる状況ながら、山本騎手を気遣う姿は多くの競馬ファンの心を打つことになります。 

 

その後、 スタッフに馬運車に誘導されたキーストンは、左第一指関節完全脱臼で予後不良と診断され、安楽死の処置を施されることになります。

 

普通の競走馬は安楽死の処分をされる際、もがき苦しみながら5分ほどで息を引き取るそうですが、キーストンは痛がる素振りも見せずじっと15分ほど我慢し、静かに息を引き取ったそうです。これは当時の獣医も驚くほどの生命力だったそうです。

 

またキーストンはレースで負けた後、関係者たちが悔しがってる姿を見ていると落ち込んでしまい、食欲がなくなってしまうことがよくあったそうで、本当に人の心を理解できる馬だったと今でも言われています。

 

山本正司が受け継いだ馬と人のつながり

この山本騎手とキーストンのような馬と人とのつながりは、山本騎手が調教師になっても一つのドラマを作ります。

2005年の天皇賞(秋)山本調教師が手がけたヘヴンリーロマンスは、14番人気の低評価を覆し。見事初のGⅠ制覇を成し遂げます。

 

このレースは天覧競馬ということもあり、天皇皇后両陛下が東京競馬場に観戦に訪れていました。そして、レースを終えた後、騎乗していた松永幹夫騎手が両陛下に向かって、馬上からヘルメットを取り深々と頭を下げました。

 

その時のヘヴンリーロマンスは、凛とした表情でじっと立ち、人馬一体となったその姿は多くの競馬ファンの感動を呼び、名シーンとして語り継がれています。これも、キーストンと時間を共にした山本正司が育てた馬だからこそ、できた名シーンなのではないかと私は考えています。

 

まとめ

いかがだったでしょうか。

 

今回は50年以上前に日本ダービーを勝ったキーストンが生んだ馬と人との絆についてご紹介しました。

 

このような馬と人の心が繋がるようなエピソードを知るとさらに競馬を見るのが楽しくなると思います。競馬場やテレビ中継でレースを見る際も、馬と人とのコミュニケーションなどに今まで以上に注目して観戦してみてはいかがでしょうか 

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