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10戦10勝!?「幻の(最強)馬」と呼ばれたトキノミノルの生涯

出典:wikipedia

 

今でも「幻の馬」として語り継がれるトキノミノルですが、その幻と呼ばれた生涯はどのようなものだったのでしょうか。今回はトキノミノルの生涯について振り返ってみたいと思います。

 

トキノミノルの血統背景

トキノミノルは1948年、今の北海道日高郡新ひだか町にある本桐牧場で産まれます。

この馬の父セフトはイギリスから輸入された種牡馬で、1947年から1951年まで5年連続リーディングサイアーに輝き、日本競馬発展に大きく貢献した馬です。

 

ちなみにこの年天皇賞(春)でセフト産駒のシーマーが、6頭中5番人気の低評価を覆してレコード勝ちをし、種牡馬としてのセフトの評価がさらに高まっていた時期でもありました。また、トキノミノルが10勝中半分のレースで2着だったイツセイも同じセフト産駒だったので、この頃セフト産駒が活躍していたことがよく分かります。

 

幼少の頃、トキノミノルは牧場で「パーフェクト」と呼ばれていたのですが、その名は10戦10勝で現役生活を終える競走生活をまさに予言するものでした。

 

3歳時、デビューから6戦6勝

3歳(現在の2歳)になった1950年7月、函館競馬場での新馬戦でトキノミノルはデビューを迎えます。ただデビュー戦は気性の悪さを見せ、レース前に主戦騎手の岩下騎手を振り落とす場面がありましたが、レースでは好スタートを決め先頭に立ち、2着のマッターホーンに8馬身差をつける圧勝劇でした。勝ちタイム48秒1は芝800mの日本レコードで、当時は衝撃的なタイムでした。

 

この新馬戦を終え将来性を高く評価した馬主の永田雅一は、この馬の名前をトキノミノルに変更することを決めます。この名前は「競馬にかけた時が実る時が来た」という意味でつけられ、日本ダービー制覇を意識する馬に名付けるためにとっておいたものだったそうです。

 

トキノミノルは2戦目のオープン戦勝ち、3戦目の札幌ステークスでは3戦3勝だったトラツクオーに10馬身差以上の大差をつけ、レコードタイムで圧勝します。

 

この後、関東に移動してからの4戦目と5戦目もレコードタイムで優勝し、当時は関東の3歳(現2歳)チャンピオンを決める朝日盃3歳ステークスに挑みます。ここでは初めて雨で渋った馬場を経験することになりますが、苦にせず2着に4馬身の差をつけて優勝し、6連勝で3歳のチャンピオンに立ちました。

 

4歳になっても勢いは衰えず、無敗で皐月賞制覇

明けて4歳(現在の3歳)になり、4ヶ月振りの実戦だった4月1日のオープン戦では59キロのハンデを背負わされますが、2着に3馬身差をつけるレコードで危なげなく勝利をおさめます。

 

4月28日のオープン特別も勝利を収め、いよいよクラシック初戦の皐月賞に挑戦します。この時点ですでに8戦8勝だったトキノミノルの活躍は既に社会現象となっており、普段は競馬を見ない人からも注目を集めるようになっていました。当日は単勝支持率73.3%という圧倒的な一番人気でした。

 

レースはいつも通りスタートから逃げ、従来のレースレコードを一気に6秒1も短縮する2分3秒0の驚異的なタイムで勝利をおさめます。これはレースレコードのみでなく、芝2000mの日本レコードも塗り替えるタイムでした。

 

皐月賞後、脚部不安を乗り越え日本ダービー制覇

しかし、皐月賞を終えたトキノミノルは厩舎に戻ると歩行の異常が見られるようになります。さらに約10日後には裂蹄の症状を発症します。元々トキノミノルは右の前脚に不安があり、それをかばうため実質3本の足で走るような走法でした。そのため、特に左の前脚への負担が大きくなってしまいこのようなことにつながってしまいました。

 

そんな中、6月3日の日本ダービーに向けて5月31日に最終追い切りを行われますが、追い切りに騎乗した岩下騎手は、脚の状態を気にして軽い追い切りで済ませました。これをきっかけにマスコミはトキノミノルの不安説を報道し、世間に知られることになります。

 

またこの追い切りの翌日、左前脚の腱まで切れてしまい、さらに出走が危ぶまれることになります。 

 

馬主が出走回避をに思わせるようなコメントも発表する事態となっていましたが、関係者の懸命なケアの甲斐もあり、レース当日の朝には脚に不安のない状態でレースに出走することとができました。レースに向かうあたり、蹄と蹄鉄の間にフェルトを挟み、負担を減らす措置がとられたことは有名な話です。

 

そのような不安説がありながらトキノミノルへの注目度は高く、レース当日の東京競馬場には7万人を超える観客が詰めかけ、初めて競馬場の内馬場が観戦するために解放されたました。

 

不調が伝えられていたトキノミノルは皐月賞ほど人気を集めることはありませんでしたが、それでも単勝支持率50%を超える圧倒的な人気でレースを迎えます。

 

ゲートが開くとトキノミノルはデビュー以来初めて先頭には行かず、道中は中団から運びます。岩下騎手は「怖くて前に行けなかった」とレース後にコメントしていたことから、やはり脚に相当な不安があったのでしょう。

 

しかし、向正面から早めに仕掛け先行した馬たちを交わすと、そのまま押し切り日本ダービーを制覇します。1943年のクリフジ以来、無敗でクラシック二冠を達成し、レースタイムはクリフジが出した時計を0.3秒短縮するものでした。このレースで10勝目となりましたが、そのうち7勝がレコードタイムでの勝利という圧倒的な強さでした。

 

そして、レース後さらに注目を高めたこの馬は「もしクラシック三冠が達成された場合は史上初のアメリカ遠征を行う」と馬主から発表されました。

 

名馬に襲い掛かった病魔

日本ダービーから2週間近くだった頃、トキノミノルの体に異常が見られるようになります。 6月16日に体調が悪くなり、6月18日に破傷風の症状が見られるようになり、トキノミノルの体調は悪化の一途をたどることになります。それから2日後の6月20日、医師と厩舎関係者の懸命の治療もむなしく、破傷風に伴う肺血症で亡くなりました。

 

この時トキノミノルにかけた治療費は、日本ダービーの1着賞金とほぼ同じ額だったと言われています。

 

このトキノミノルの死は、スポーツ新聞だけでなく一般誌にも取り上げられ、多くの人に知られました。

 

この時に作家の吉屋信子が「ダービーに勝つために生まれてきた幻の馬」新聞紙面に追悼文を寄稿したことにより、この馬が「幻の馬」と呼ばれることになります。

 

トキノミノルが亡くなりまもなく70年が経とうとしますが、今でも東京競馬場のパドックの近くにはトキノミノルの銅像が建っており、共同通信杯の副称は「トキノミノル記念」と名付けられており、今でもトキノミノルの存在に触れることができます。 

 

まとめ

今回は70年近く前にダービーを勝った幻の馬トキノミノルについてご紹介させていただきました。10戦10勝という成績は、戦後の中央競馬で10戦以上出走した馬の中で唯一無敗という偉大な記録です。

 

近年活躍したあのディープインパクトシンボリルドルフでも成し遂げられなかったことを考えれば、いかにすごい成績かというのがお分かりいただけると思います。 

 

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