シーキングザパールの血統
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父:Seeking the Gold アメリカ産。3歳時にドワイヤーステークス (ダート9ハロン) 、スーパーダービー(ダート9ハロン)に勝つ。
母:ページプルーフ アメリカ産。アメリカで6戦1勝。
1990年代は、仕上がりの早さからアメリカから大量の競走馬が輸入され、特に短距離レースではいわゆるマル外の馬の活躍が目立った時期でした。
そのような時期に、シーキングザパールは日本に来ました。
シーキングザパール自身は、生粋のダート血統です。
この血統では、芝の適性は走らせてみなければわかりませんが、走ってみると芝で活躍しましたので、ダートではもっと走るのでは? と期待をしたくなります。
そのため、最終的にアメリカで引退を迎えることになったのは納得できます。
持ち前のスピードは、アメリカのダート競馬で受け継がれてきたものが発現したものと考えられます。
勝利GⅠレース(騎乗騎手)
1997年 NHKマイルカップ(武 豊)、モーリス・ド・ゲスト賞(武 豊)
真珠ではなく「自分」探しをしていた?
日本馬初めての海外GⅠ勝ちなど、実績を見れば能力豊かな馬であったことは確かです。
ただ、競馬ファンから見れば、ときどき不可解な負け方をするので、「どうしたのか」と思ってしまうことが多々ありました。
また、現役時は転厩や馬主の交代、再三に渡る海外遠征、引退時はアメリカと、自身の置かれている立場の様々な変化を経験した馬もありました。
名前は「真珠探し」ですが、いろいろなことを経験して、結果として、自分に合った環境や条件で実力を発揮したのではないかと考えれば、不可解な負け方が多少なりとも納得できるような気がしてきます。
おてんば娘、わがままパワー炸裂!デビュー戦で7馬身差の圧勝
デビュー戦は圧倒的なスピードで2着に7馬身差をつけて快勝。
2走目は、当時は右回り1200mで行われていた新潟3歳ステークス(現新潟2歳ステークス)に出走し、シーキングザパールは2番人気でした。
レースでは、スタート直後に逸走し、騎乗していた武豊騎手が落馬しかけるほどで、短距離戦では致命的な不利となりました。
最後の直線に入り、猛然と追い込むも3着が精一杯。
そのときから「どうしたのか」と思うような状況があったわけです。
その後、デイリー杯3歳ステークス(現在のデイリー杯2歳ステークス)では、単勝1.5倍の1番人気に支持されて5馬身差の圧勝。
そして、GⅠの阪神3歳牝馬ステークス(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)でも単勝1.5倍の断トツの1番人気に支持されることとなりました。
レースでは、スタートを決め道中3番手に付けながら、直線では伸びずそのまま4着に入線。
騎乗の武豊騎手も首をかしげるばかりという状況。
この頃からシーキングザパールには、「おそらく実力があるとは予想はできるが、勝手な振る舞いをして人の言うことを聞かないことがある馬」という印象がつくことになりました。
つまり、競馬ファンは、この馬については「走る気をなくす場合あり」ということを踏まえて、馬券を検討する必要があるということを認識し始めたのです。
2度の馬主交代と渡米
植中倫子氏→植中昌子氏→ジェイエフ "ビー" ステーブルズと馬主が2度変わっています。
現役中にJRAの競走馬登録が抹消されて渡米、2戦した後に引退しました。
渡米した理由ははっきりとわかりませんが、血統的にはアメリカ競馬を試したくなる気持ちはわかります。
結果的には、シーキングザパールの「自分探しの旅」のために馬主が交代していったのかもしれません。
電撃転厩!佐々木厩舎から森厩舎へ
デビュー時は佐々木厩舎に入厩しましたが、1997年のシンザン記念を勝利した後にいきなりシーズン途中で森厩舎へ転厩しています。
佐々木晶三調教師と馬主との間でローテンションに関して対立したとの話がありますが、真相は明らかではありません。
その後、森調教師が見つけた日本ではあまり有名ではないフランスのドーヴィル競馬場のGⅠモーリスドギース賞で勝ったことを思えば、結果的には転厩は良かったのではと考えることはできます。
森調教師は、自分探しをしているシーキングザパールのよき理解者だったということではないでしょうか。
フランスのG1モーリスドギース賞にて、日本調教馬初の海外GⅠ制覇達成
シーキングザパールがGⅠモーリスドギース賞へ挑戦した頃、日本の短距離界の絶対王者タイキシャトルが同じドーヴィル競馬場で一週間後に行われるGⅠジャック・ル・マロワ賞へ挑戦をしようとしていました。
日本の競馬界の興味は、タイキシャトルの遠征の方に向き、そちらが「海外GⅠ初制覇」の期待で持ちきりでした。
正直なところ、シーキングザパールがモーリスドギース賞を勝ったというニュースを聞くまで、日本の競馬ファンは遠征していたことも知らなかったぐらいでした。
テレビによるレース中継はなく、ラジオたんぱによるラジオ実況放送のみがメディアによる対応でした。
ただ、彼女の理解者である管理する森調教師は綿密な計画を立て遠征を行っていたのです。
具体的な計画としては、調教をフランスで行わず、イギリスのニューマーケットで調教を行うというものです。
理由は、普段調教を行っている栗東の販路調教コースのような、同じウッドチップの販路調教コースがニューマーケットにはあったためです。
さらにレース当日は、馬場への先出しやゲートへの後入れを行い、とにかく彼女のご機嫌を損ねないような努力をしたのでした。
レース本番では、シーキングザパールは好スタートを切り、そのままハナに立つと、ゴールまで先頭を譲ることなく逃げ切ったのでした。
日本競馬界の悲願であった、海外GⅠ制覇が実現した瞬間でした。
スプリンターズステークスでタイキシャトルを負かしたが。。
フランスでGⅠを勝った後、帰国初戦のマイルチャンピオンシップに出走しましたが8着でした。
このレースに勝ったのは、シーキングザパールの1週間後に同じドーヴィル競馬場のGⅠジャック・ル・マロワ賞を勝ったタイキシャトル。
2着に5馬身差の圧勝でした。
そのタイキシャトルが引退レースとして選んだのは、当時12月に開催されていたスプリンターズステークスでした。
そのレースに、フランス短距離GⅠ馬として、シーキングザパールも出走しました。
人気は、タイキシャトルは断トツの1番人気で、シーキングザパールは離された2番人気でした。
レースでは、タイキシャトルはいつも通り先団に付け、シーキングザパールは前走と打って変わって後方待機。
4コーナーでタイキシャトルが先頭に立ったところにマイネルラヴが馬体を合わせ、両馬壮絶なたたき合いでマイネルラヴがタイキシャトルの前に出たところ、猛然とシーキングザパールが怒涛の如く追い込み、タイキシャトルを交わすことができましたが、マイネルラヴには頭差届かず2着。
レース後、シーキングザパールに騎乗していた武豊騎手が、「タイキシャトルを負かして、さらにもう1頭いるとはね。。。」と。
ただ、前走の逃げではなく、後方待機策をとってタイキシャトルを負かした武豊の手腕は、おてんば娘を知り尽くした上での騎乗でした。
シーキングザパール代表産駒の活躍
目立った活躍馬としては、シーキングザダイヤが挙げられます。
母と同様NHKマイルに出走し2番人気に支持されましたが、結果7着。
その後海外遠征を行うも、結果は振るわず。
帰国後はダート戦を使い適性を示しました。
フェブラリーステークス(GⅠ)では2着の実績があります。
シーキングザパールの血統を見れば、ダートの中距離に最も適性があると考えられ、この活躍は当然の結果といえると思います。
原因は落雷?原因不明の最期
2005年6月10日、シーキングザパールは当時繋養されていた放牧地で発見されました。
放牧地の場長によれば、「明確な死因は不明だが、落雷に遭ったのでは」とのこと。
11歳でこの世を去りました。
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