1996年に生誕し2005年まで地方、高知競馬で活躍したハルウララという馬をご存じでしょうか。
普通、競走馬は大舞台で勝つことで名声をあげることができますがこのハルウララは全く違っていてレースに負けすぎて知名度を高めたのです。
ハルウララの戦績は113戦0勝。
競走馬としての素質は限りなくゼロに近い馬でしたがそれでも高知をはじめ、全国の競馬ファンに愛される存在でした。
また、これだけ勝ち切れないにも関わらず競走馬として走り続けられたことも異例中の異例です。
もちろんハルウララ以上に連敗記録を更新している馬がいることも事実ですがどうしてハルウララがここまで世間に注目されたのかをお話ししていきましょう。
血統
父 |
父の父 リィフォー |
父の母 チヨダマサコ |
|
母 ヒロイン |
母の父 ラッキーソブリン |
母の母 ピアレスレディ |
父はニッポーテイオーで1987年の天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、1988年の安田記念を制した昭和末期の名マイラー。
母のヒロインは現役時代勝ち星どころか馬券内、掲示板入選もできずに引退しましたが母の父であるラッキーソブリンはニジンスキー系種牡馬の代表格で、血統背景は悪くありませんでした。
ハルウララの性格
生まれた時から小柄で見栄えも悪く、売れ残ってしまったハルウララは生産した信田牧場名義で所有することとなりました。
牧場長は預託料が一番安かった高知競馬で走られることを決意します。ハルウララを預かった宗石調教師は牧場主への義理を立てるためにハルウララを預かりました。
ハルウララは体型が小柄だけでなく臆病な馬でわがまま、そして飽きっぽい性格で競走馬としては失格でした。
それでも厩舎の尽力でなんとか競走馬デビューを果たしたのが1998年。デビュー戦は最下位でした。
勝てないハルウララはどうして走り続けることができたのか
ハルウララはデビューから年間20レース近く走る日々を送りましたが一向に勝つことが出来ません。
それでもハルウララが走ることが出来たのはハルウララが丈夫な馬だったからです。どういうことかというと競走馬は出走すると出走手当を受けることが出来るのです。
レースでは全く勝つことが出来ませんでしたが年間20レース近く走ることで出走手当と預託料がなんとか釣り合いハルウララは現役で何年も走ることが出来たのです。
高知競馬経営危機問題
高知競馬場(Goki (talk) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4790439による)
ところでこれほどまでに負けを重ねるハルウララがブームとなった理由はなんだったのでしょう。
ハルウララはレースではまるで見せ場がありませんでしたが、時代がハルウララブームを後押ししました。ハルウララを語るにはこのころの時代背景を語らずにはいられません。
少し話はハルウララから逸れてしまいますがハルウララが現役で走っていたころの時代背景についてお話しします。
ハルウララが連敗記録を重ねながらもレースで走り続けていたころ、高知競馬の経営は非常に圧迫していました。
元々競馬はギャンブルという側面を持ち合わせていて数多くの人に支持されましたが1973年のハイセイコーブーム、1980年後半から90年前半にかけて起こったオグリキャップブームにより競馬ファンのみならず多くの人が競馬に興味を持ち、爆発的に競馬人口は増加しました。
競馬の歴史においてハイセイコーが起こしたブームを第一次競馬ブーム、オグリキャップが起こしたものを第二次競馬ブームと呼びます。
特に第二次競馬ブームのころには「みどりのマキバオー」や「風のシルフィード」といった競馬を題材にした漫画が世に広まり、また、「ダービースタリオン」や「ウイニングポストシリーズ」といった競馬ゲームの影響もあってより多くの人に競馬が浸透することとなります。
ところが、ブームの側面で産まれた産業が競馬人口を奪うこととなります。その産業とはパチンコとスロットです。
パチンコでは一度当たったら止まらないフィーバー機が導入されるとギャンブルとしての側面として競馬を楽しんでいた多くの人はパチンコに乗り替わったのです。またパチスロでは4号機が導入されました。4号機とはドラムを目押しで止めることができ、いまのように遠隔操作ではありません。つまり、目押しができればでいくらでも稼ぐことが出来たのです。フィーバー機が誕生したのは1980年でちょうど第一次競馬ブームと第二次競馬ブームの間のことでした。第一次ブームで多くの競馬人口を獲得したもののフィーバー機の誕生で多くの人はパチンコに乗り替わりました。
その後、オグリキャップの活躍で第二次競馬ブームが巻き起こるとパチンコに流れた人口が競馬に戻りましたが1992年ごろに4号機が導入されたことで今度はスロットに競馬人口が流れてしまい、第二次競馬ブームが終焉を迎えたのです。
パチンコ・スロット産業の発達は数多くの競馬場の経営危機にもつながり、高知競馬場も例外ではありません。特に四国のなかでも本州から最も遠い位置にある高知県は瀬戸大橋や明石海峡大橋の力をもってしてもアクセスし辛く、それどころか高知市内からも離れた位置にある高知競馬場は他の地方競馬に比べて打撃が大きかったのです。
レースが開催される日でも地元の人がごく僅かにしかいないほどに過疎が進んでしまったのです。
橋口浩二アナウンサー
そんな高知競馬の経営危機はハルウララには知る由もありません。
ただただレースに出走して僅かばかりの出走手当で競走馬抹消を免れていたハルウララに注目した人物がいます。高知競馬場のアナウンサーである橋口浩二氏です。
橋口氏は元々は競馬と縁のない人生を送っていましたが仕事で競馬に触れる際、国内のみならず海外競馬についても積極的に研究するようになりました。
高知競馬でアナウンサーの仕事に従事している中、連敗記録を更新しているハルウララの存在に気づき、あるアイディアが浮かび上がりました。ハルウララを高知競馬のアイドルホースにすることでした。
橋口氏が海外競馬に精通されていることは先ほどお伝えした通りですが橋口氏にはアメリカで連敗を重ねながらも走る続けるジッピーチッピーという馬が存在を知っていたのです。ジッピーチッピーはアメリカの競走馬で1991年に生誕。1993年にデビューを果たすものの一度も勝利を手にすることなく連敗を重ね、ついには100連敗を達成してしまいました。しかし、負け続けながらもひたむきに走り続ける姿に多くの人は魅了され、アメリカでG1ホース並みに人気のあるアイドルホースとなったのです。
橋口氏は高知競馬存続のためにハルウララを日本におけるジッピーチッピーとして持ち上げようと地元の新聞社に話を持ち掛けます。すると新聞社はハルウララの話を高知競馬場の関係者に持ち出します。そしてその話を中央競馬関連のマスコミに持ち出しました。中央競馬関連のマスコミは変わったネタになる話題としてハルウララを持ち上げると瞬く間にハルウララは「負け組の星」という扱いで全国の競馬関係者、いや、それどころか競馬とは全く関係のない番組でもハルウララの話が持ち上がり、全国にハルウララブームが巻き起こったのです。
ハルウララフィーバー
高知競馬場では信じられないことが起きていました。
普段地元の方がわずかばかりレースを見に来るほど過疎が進んでいた高知競馬に突如として数多くの人、マスコミが押し寄せてきたのです。目的は一度も勝てないハルウララ。
しかも、ハルウララが負ける姿を見るために来場した人が多かったのです。負ける姿を見に来る…。それまでの競馬じゃありえない話でした。
ハルウララが出走するたびに高知競馬には数多くのファンが押しかけます。
ハルウララブームの火付け役となった橋口氏、地元の新聞社、そして高知競馬関係者にとってもここまでブームになるとは思いませんでした。しかしながらハルウララが高知競馬存続の切り札になりかねない状況であることは間違いなく、競馬場存続のために懸命な努力をします。
最初に用意したのはハルウララ関連のグッズでした。もちろん飛ぶように売れ、ハルウララのグッズだけで1000万円以上の経済効果を生みました。
また、ハルウララが出走するレースのみ全国の地方競馬場で馬券が購入できる措置も施されます。ハルウララの馬券は「当たらない馬券」と言われ、交通安全のお守りとして一躍注目されました。
全国的にハルウララが注目される中、ハルウララは次のレースで負けたら100連敗という節目に差し掛かりました。言い換えればハルウララがデビューして100戦目となるレースです。ただでさえハルウララファンでごった返していた高知競馬場にさらに多くの人、マスコミが押し寄せ、高知競馬は地方競馬としては異例の5000人もの観客が押し寄せたのです。
負け続けながらも懸命に走る姿は平成不況と言われる時代で答えのない人生を歩む多くの人に勇気と希望を与え、全国のファンの心を掴み取ったのです。
あの武豊騎手も騎乗した?
実はハルウララにあの武豊騎手が騎乗したことがあるのです。
ハルウララの106戦目に武豊騎手が騎乗しました。中央競馬のレジェントジョッキーであればハルウララか勝てるのかと、100連敗がかかった時とはまた違った意味で多くの人に注目を浴びました。
実際に武豊騎手が高知競馬場に足を運び、レースが開催されましたが結果は11頭立ての10着。レジェントジョッキーの手腕をもってしてもハルウララは走る意欲を見せず敗れてしまいます。
レース後に武豊騎手は
「強い馬が強い勝ち方をすることに競馬の面白さがあると思っていてその気持ちは変わることはありません。競走馬の本質を離れた大騒ぎが繰り広げられたことに嫌気が差すこともありました。しかし、高知競馬場にあれだけのファンを呼び、日本全国に狂騒曲を掻き鳴らした彼女は間違いなく”名馬”と呼んでもいいと思います」
とコメントされました。
余談ですがこの武豊騎手とハルウララが挑んだレースは多くの人に注目を集め、高知競馬における
当日の入場者数
馬券売上額
1日の総馬券売上額
において高知競馬史上最高記録を更新しました。
ハルウララの馬主は何度か替わっている
ハルウララが一気にブームになり、連敗100勝、そして武豊騎手が騎乗ということでハルウララの経済効果は相当あったといわれています。
身体が丈夫なハルウララはその後もレースに出走しては負けを繰り返し、そして、馬主の都合で引退されました。
ところでハルウララの馬主は現役時代に何度か替わりました。元々の馬主は牧場主である信田牧場長でしたがその後横山貴男氏に移ります。
横山貴男氏はその後ハルウララの権利を安西美穂子氏に無償で提供します。安西美穂子氏はエッセイストとして知られ、競走馬を題材とした執筆活動を行っています。
しかし、安西氏と調教師の間でハルウララの管理方針を巡って対立し、ハルウララを厩舎から栃木県に移動します。そしてそのまま競走馬を引退することとなりました。生涯成績は0勝113敗でした。
引退後はホースセラピーとして利用される話が浮上したり2009年ごろにはディープインパクトとの交配も考えられていたようですが実現はしなかったようです。
引退後のハルウララはどこにいる?
結局のところ引退後のハルウララの計画は全て頓挫となります。ハルウララは北海道の牧場を転々とした後、消息を絶ちます。多くの人がハルウララは現在どうしているのかと疑問に持ちました。
ハルウララの消息が判明したのは2013年のことで、ハルウララは千葉県御宿町にあるマーサファームにて預託されていることが判明されました。しかし、馬主の安西氏が預託料を払わなくなり、安西氏も牧場に来ることはなくなったようです。安西氏は実質馬主の権利を放棄したようなもので、その後は牧場側がハルウララを引き受ける形となります。
2020年現在、ハルウララは千葉のマーサファームにて元気いっぱいに過ごしています。
たいようのマキバオー
余談ですが話の途中にも触れた「みどりのマキバオー」の続編に「たいようのマキバオー」という漫画があります。
たいようのマキバオーの主人公であるヒノデマキバオーのモデルがこのハルウララなのです。
たいようのマキバオーの作者であるつの丸氏は
「無敗で多くの人を魅了したディープインパクトと一勝もせずに多くの人の心を掴んだハルウララが同じ時代に競走馬としてターフを走っていることに衝撃を覚え、ハルウララと高知競馬を題材にした漫画を描きたかった」
と述べられています。
ハルウララが世の中にもたらした影響
ハルウララの話は以上になります。
ハルウララは競馬界のみならず多くの人たちに多大な影響を与えました。
最後に、ハルウララがもたらした影響を見ていきます。
まずは高知競馬場です。ハルウララがもたらした売上を高知競馬ではプールしていました。
ハルウララブームが去り、再び経営難に陥りかけたときにハルウララの売上でいち早く馬券の電話・インターネット投票に手を付けます。
次に平日の日中に開催していた競馬を廃止し、JRAのレースが開催される土日にナイター競馬である「世さ恋ナイター」を設けました。対象にしたのは中央競馬のファンです。中央で最終レースまで競馬を楽しんだ人たちの余韻が冷める前に高知競馬のレースを開催することで一日中競馬が楽しめるように工夫をしました。
インターネットのおかげで全国どこにいても馬券が購入できます。JRAと高知競馬を合わせると一日中競馬を楽しめる措置は多くの中央競馬ファンに支持され、今では黒字経営で運営されています。
次にハルウララブームの火付け役となった橋口浩二氏です。
橋口氏はその後も高知競馬のアナウンサーとして活躍されています。競馬以外にも勉強熱心な方で、個人協賛レースにてアニメの登場人物の誕生日を祝うレース名が付けられた時もアニメの解説、登場人物の解説などを真面目に行っていて一部のアニメファンから多大な支持を集めています。
千葉のマーサファームで働かれている宮原優子さんはハルウララを担当する厩務員の方です。安西氏が委託料を支払わなくなるとハルウララの預託料を確保するために「春うららの会」を設立されました。
春うららを見守る会のホームページ(https://mf-urara.jimdo.com/)内で
「マーサファームにやってきたのは偶然でしたが、これだけ人を惹きつけ、頑張って生きてきた馬が、みすみす見捨てられてしまうのはあまりにも非情に思い、会の設立に至りました。馬を一頭養うのは簡単なことではないけれど、人に振り回され、波乱万丈な馬生を送ったこの小柄な鹿毛の牝馬が穏やかな余生を過ごせるよう、 皆さんのお力添えを宜しくお願い申し上げ ます。」
と述べられています。
現在は春うららの会の会費をハルウララの飼育費に充てることができました。
最後に、ハルウララを見ていきましょう。競走馬としては異例の負け組の星として一躍世間の注目を集めました。
しかし、ハルウララを管理した宗石調教師、助手の方はハルウララをレースで勝てるよう調教したのは事実です。
ハルウララのモデルとなったたいようのマキバオーの主人公であるヒノデマキバオーも負け犬の星として注目を集めました。勝てるレースでも力を抜いてわざと負けることでファンの心を引き離しませんでしたがある時、物語の中で涙ながらに思い切り走りたいと漏らしました。
ハルウララに思い切り走りたい気持ちがあったのかどうかは定かではありませんが、レースに勝てないことで生かされていたのは事実で、馬主の変更、価値観の違いから多くの人に振り回されていたのも事実です。
サラブレッドとは経済動物であるという意見は否定はできませんが、多くの人間の心を掴みながらも人間のエゴのために時に振り回されたハルウララの余生はせめて安らかであるものであればと思います。
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