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不器用なダンスヒロイン!ダンスパートナーの現役時代と産駒

By Ogiyoshisan - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29967487

 

ダンスパートナーの血統

サンデーサイレンス

Halo 

Hail to Reason 

Cosmah 

Wishing Well 

Understanding 

Mountain Flower 

ダンシングキイ 

Nijinsky 

Northern Dancer 

Flaming Page 

Key Partner 

Key to the Mint 

Native Partner 

 父:サンデーサイレンス アメリカ産。アメリカ三冠レースのうち、ケンタッキーダービーとプリークネスステークスを制す。同じ年に、ブリーダーズカップ・クラッシックも制す。

 母:ダンシングキイ アメリカ産。未出走。ダンスパートナー以外にも、エアダブリン(ダービー2着)、ダンスインザダーク(菊花賞馬)、ダンスインザムード(桜花賞馬、ヴィクトリアマイル勝ち)を産み。繁殖牝馬として、大成功を収めています。

 

ダンスパートナー自身は、父サンデーサイレンスの気性、母の父Nijinskyの気性を引き継いだため、気性難によるスタートを出遅れることが度々ありました。

気性の激しさによって競争馬は能力が高められる面はありますが、そのバランスは能力を安定して発揮するためには非常に重要な要素です。

 

 

勝利GⅠレース(騎乗騎手)

 1995年 オークス(武 豊)、1996年 エリザベス女王杯(四位 洋文)

 

 

名前の割には立ち居振る舞いが苦手な馬

 名前が「ダンスパートナー」という割には、とにかく立ち居振る舞いの良さが必要なゲートが苦手な馬でした。

そのため、スタートで後手を踏み、最後の直線で追い込みますが勝ち馬を交わせずというレースが多い馬でした。

そのため、生涯25戦4勝の成績ですが、2着が9回もありました。

 

 

完璧な準備と体調でオークスを制す 

デビュー前のダンスパートナーは、体調が本調子ではなく調整を順調に行うことができませんでした。

デビュー戦は、当時の年齢の数え方で4歳の1月の小倉開催で、春のクラシック路線に乗りたい良血馬としては遅いものになってしまいました。

芝1200mのデビュー戦ではスタートで大きく出遅れましたが、直線で豪快に末脚を繰り出し、ゴールでは2馬身3/4差をつける圧勝と、良血の片鱗を見せることとなりました。

 

 2戦目のエルフィンステークス、3戦目のチューリップ賞でも出遅れましたが、ともに2着に入ることができ、桜花賞の出走権を確保。クラシック路線に乗ることができました。

 

 念願の桜花賞出走。

レースでは、スタートで出遅れてしまい、最後の直線で追い込むも、ワンダーパヒュームのクビ差2着とまたしても勝ち馬を捕まえきれませんでした。

確実に追い込んできますが、スタートさえよければと、思われる状況が続きます。

ただ、この時点では、まだ1勝馬ですので、GⅠの桜花賞で健闘したのではと考えることもできます。

良血通りの走りは見せていたということになります。

 

 1月のデビュー以降、クラッシック路線に乗るために少し無理をしていたかもしれませんが、桜花賞で2着に入ることでオークスへの出走権が取れました。

そのため、桜花賞出走後はレースに出走せず、オークスまでじっくりと調整を行うこととしました。

出遅れを解消するためにゲート練習を繰り返し、オークス出走のために東京競馬場に到着した後も、ダンスパートナーにコースを見せて環境にも慣れさせることも行いました。

 

 オークス当日の人気は、1勝馬ながら桜花賞2着が評価されて単勝4.6倍の3番人気でした。

レースでは、スタートは出遅れることなく、練習の甲斐がありしっかりとゲートを出ることができました。

道中も折り合ってレースを進め、結果は2着に1馬身3/4差をつけ完勝となりました。

勝ちタイムの2分26秒7は、一週間後に行われたタヤスツヨシが勝ったダービーの勝ちタイム2分27秒3よりも速いもので、オークスの歴史で2番目に速いものでした。

 

 

果敢にもフランスへ遠征

 2400mのオークス完勝の結果を受け、秋はフランスへ遠征することとなりました。

元々、ダンスパートナーの共有馬主が当歳時にブリーダーズカップへ登録をしていたように、できれば海外遠征をしたいと陣営は考えていたようです。

日本の競馬史上、内国産牝馬として初めてのヨーロッパ遠征となりました。

 

フランスでは芝2400mのGⅠのヴェルメイユ賞を目指すことになり、ステップレースとしてドーヴィル競馬場のGⅢノネット賞を使うことになりました。 

ノネット賞は4頭立てと少頭数のレースではありましたが2着に入り、本番のヴェルメイユ賞での好走が期待されることとなりました。

 

ヴェルメイユ賞は頭数も揃い10頭立てとなりました。

当日の馬場は重馬場で、日本の軽い芝で切れ味を発揮するダンスパートナーにとっては厳しい馬場となることが予想されました。

また、トライアルレースの好走によって1番人気に押されましたが、そのことによって却ってヨーロッパ勢のマークが厳しくなることも予想されました。

 

レースでは、ダンスパートナーはスタートして後方に待機し、直線で勝負に賭ける作戦を取りました。

しかし、各馬最後の直線に差し掛かったところで、馬群の外に出そうとしましたが出してもらえず、脚を余したままで馬群に揉まれながらのゴール。

優勝馬とは2馬身差の6着という結果でした。

改めて、日本の競馬関係者やファンは、様々な面でヨーロッパ競馬の「壁」を感じることとなりました。

 

 

菊花賞への出走

 1995年当時、秋の4歳牝馬限定戦はエリザベス女王杯でしたが、翌年から古馬に解放され、翌年から秋華賞が開催されることが決まっていました。

そのため、フランスから帰国後のダンスパートナー陣営は、翌年でもエリザベス女王杯を勝つことができると考え、フランス遠征からの帰国後初戦は、エリザベス女王杯はスキップし菊花賞出走を選択しました。

菊花賞への牝馬の出走は18年ぶりという話題性と、競馬ファンには牡馬のレベルがあまり高くはないと思われていたため、ダンスパートナーは1番人気に支持されることとなりました。

 

レースでは、ダンスパートナーは道中10番手当たりを馬群の外側につけ、2周目の第4コーナーでは外を回り馬群の先頭に取りつきました。

そして直線に入り、じりじりと伸びてきましたが、ゴール前残り200mあたりで伸び脚が止まり、結局は5着でした。

結果として、秋になって開いてきた牡馬と牝馬の力量差が思ったより大きかったためと、ダンスパートナーが3000mを乗り切るだけのスタミナを持っていなかったということでしょう。

勝ったのは夏以降メキメキと力を付けてきていた上がり馬のマヤノトップガンでした。

 

 

古馬になってからの活躍

 古馬になってからは、ダンスパートナーの才能を厩舎側が高く評価していたことと、現在ほど古馬牝馬路線が整備されていなかったことから、牡馬との戦いを行っていくこととなりました。

5歳時の春シーズンは、京阪杯1着、アメリカジョッキクラブカップ、京都記念2着、宝塚記念3着と、古馬牡馬の一線級と互角に渡り合いました。

そして、秋シーズンになり、前年スキップしたエリザベス女王杯を予定通り制すことができました。

 

 6歳時は、前年と同様、宝塚記念で3着に食い込み、力のあるところを見せることができました。

そして翌年の繁殖入りまで、怪我をすることもなく元気に走り続けました。

 

 このように改めて当時の活躍を振り返ってみますと、現在のように牝馬路線が整備されていれば、もっと華々しい活躍ができたと思わるような成績であったことがうかがえます。

 

 

産駒の特徴、代表産駒一覧

 血統上、激しい気性を引き継いだ産駒が多く、目立った活躍馬はあまりいません。

フェデラリスト(中山記念、中山金杯勝ち)が唯一の重賞勝ち産駒です。

 

2016年10月14日、繋養先の社台ファームで蹄葉炎のために亡くなりました。20歳でした。

 

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