日本のホースマンや競馬ファンにとって、凱旋門賞制覇はかねてから「夢」として語られることが多い、競馬の世界では最高峰のレースです。
近年日本馬による活躍は目覚ましく、近い将来、おそらく日本馬による凱旋門賞制覇が現実のものとなることでしょう。
近年の凱旋門賞といえば、やはり三冠馬のオルフェーヴルの活躍は記憶に新しいところです。
オルフェーヴルが彼特有の「ちゃめっけ」さえ出さなければ、世界の競馬の歴史が間違いなく塗り替えられることになったはずです。
実際、イギリスの某有名調教師は、オルフェーヴルを評して「ダンシングブレーヴでもあんな追い込みはできない」と言わしめたほど、まさに記録より記憶に残るパフォーマンスだったといえるでしょう。
オルフェーヴルの凱旋門賞挑戦が終わって間もなく、フランスギャロは「凱旋門賞の斤量体系」に言及しました。
プライド高きフランス競馬の元締めが、3歳馬有利の斤量を見直す提案を掲げたのは、もしかしたらオルフェーヴルというスーパーホースが一石を投じたことを意味しているのかもしれません。
日本の競馬でも、過去にそんな例がありました。
JRAの場合、確かに「役人気質」と言われるようなところがあって、ルール改正などそう簡単に行われるものではありません。
もちろんルールがころころ変わるようでは、公正競馬の何たるかを踏みにじっているようなものですから、「悪法も法なり」ではありませんが、そう簡単に変えることはできない部分もあります。
ただ、そんな日本競馬をも動かした名馬が過去にいたことも事実なのです。
その名馬は、おそらく若い人でも一度は耳にしたことがあるはずの、マルゼンスキーです。
マルゼンスキーとニジンスキー系血統
マルゼンスキーを知らない世代(筆者もまさにそのひとり)も徐々に増えつつあると思いますが、まずはその血統からご紹介していきましょう。
マルゼンスキーの父ニジンスキーは、現時点では「最後のイギリス三冠馬」です。
ニジンスキーが三冠馬となったのは、今から46年も昔のことですから、日本と違って、イギリスではなかなか三冠を制することは難しい(というか、あまり価値が見出されなくなっている)といえます。
ニジンスキーは「最も成功したサラブレッド」などとも言われたほど、現役時代のみならず、種牡馬としても大成功をおさめました。
日本でもニジンスキー系血脈は主流を形成していた時代もあり、マルゼンスキー亡き今もなお、その血は日本の競馬に強い影響力を与えています。
日本で栄えたニジンスキー系血脈は、たとえばダンスパートナー、ダンスインザダーク、ダンスインザムードの姉弟は母ダンシングキイの父として、そして「奇跡のダービー馬」と呼ばれたカーリアン産駒フサイチコンコルドは、父系の祖父にニジンスキーの名前があります。
他にもたくさんいますが、代表的なところでは、こういった広がりを見せています。
ただ、マルゼンスキーが誇ったとされる想像を絶するスピードは、母方のバックパサーの血の影響が大きく、スピードとともに底力もマルゼンスキーには伝わったと考えられます。
牝系も優秀で、特に日本での活躍が多く、ファミリーにはエルコンドルパサー(サドラーズウェルズ系)、スイープトウショウ(ダンシングブレーヴ系)、ずっと古いところでは、1200mも3200mも勝ったタケシバオーなどもいます。
8戦全勝!マルゼンスキーの現役時代を振り返る
マルゼンスキーは現役時代、8戦全勝という、今ではちょっと想像がつかないような、とてつもない活躍をした名馬でした。
勝った主要レースは、当時の朝日杯3歳S(現朝日杯FS)、日本短波賞(現ラジオNIKKEI賞)と、どちらかといえば地味なレースではありました。
実はそれには大きなワケがあるのですが(詳細は後述)、マルゼンスキーのすごさは、レースがどうとかそういうレベルではありませんでした。
ここで、マルゼンスキーが走った8レース(全勝)の、2着との着差を示していきます。
新馬 中山芝1200 大差
いちょう特別 中山芝1200 9馬身
府中3歳S 東京芝1600 ハナ
朝日杯3歳S 中山芝1600 大差
オープン 中京芝1600 2・1/2
オープン 東京芝1600 7馬身
日本短波賞 中山芝1800 7馬身
短距離S 札幌ダ1200 10馬身
8戦のうち、大差勝ち2回、7馬身差以上の勝ちが4回。
ハナ差の苦戦もありましたが、マルゼンスキーはそれ以外すべて圧勝か超圧勝という「お化けホース」だったのです。
では、なぜこんなに強い馬であるにもかかわらず、マルゼンスキーはクラシックを走らなかったのか・・・実は、ここに「ルールの壁」が隠されていたのです。
持ち込み馬としての障壁、真のホースマン中野渡清
マルゼンスキーはアイルランドのニジンスキーの産駒でしたが、ご存知のとおり、ニジンスキーは日本に輸入されたことはありませんでした。
そして、マルゼンスキーの母シルも、マルゼンスキーをお腹に宿した時点ではアメリカの繁殖牝馬だったため、当時の日本では、マルゼンスキーは「持ち込み馬」というくくりでくくられ、残念ながらクラシック出走の権利さえ持っていなかったのです。
ダービーが行われる際、マルゼンスキーの手綱を引退まで執り続けた中野渡清騎手(当時)は、「大外でもいい、他の馬の邪魔もしない。賞金もいらない。だから日本ダービーに出走させてほしい」と懇願したとされます。
これはもう伝説といっても過言ではないでしょう。
このときの中野渡騎手は、もちろんプロフェッショナルではありました。
しかし、「賞金はいらない」という時点で、プロフェッショナルを超越した「真のホースマン」だったのではなかったかな、という気がします。
名馬は騎手を育てると昔から言われていましたが、やはりマルゼンスキーは伝説となった名馬だったのです。
この後、持ち込み馬がクラシックの出走権を得るようになったのも、もしかしたらマルゼンスキーの功績だったといえるのかもしれません。
実際、比較的近いところでは、ビワハヤヒデ(菊花賞、天皇賞春)、フサイチコンコルド(日本ダービー)などが、持ち込み馬として内国産同様の大レースを優勝していました。
他にも別陣営が、「一緒に走るときにタイムオーバーになるような勝ち方だけはしないでくれ」と願いが出されたこともあったというくらいですから、マルゼンスキーのパフォーマンスはまさに前代未聞だったことは間違いありません。
モーリスはマルゼンスキーの再来!?
世界を制したジャスタウェイの強さは記憶に新しいところですが、ジャスタウェイとおそらく互角のポテンシャルを持っているのが、2016年11月時点で現役のモーリスということになるでしょう。
モーリスはスクリーンヒーロー産駒の代表馬ですが、実はこのスクリーンヒーローは、「怪物」と言われたグラスワンダー産駒でした。
モーリスも、父よりも祖父のグラスワンダーのほうに走りが似ているなどと言われることが多いです。
グラスワンダーもマルゼンスキーと同じく朝日杯3歳Sを優勝していましたが、このときの驚愕のレコードタイムがはじき出されたとき、テレビの競馬中継で、「マルゼンスキーの再来です!」と思わず叫んだあの名実況が印象的でした。
実を言うと、グラスワンダーが大幅に塗り替えたレコードの保有者は、マルゼンスキーではなく、マルゼンスキーのレコードを破ったリンドシェーバーだったのですが、そのリンドシェーバーさえかすんでしまうほど、マルゼンスキーのパフォーマンスがすごかったということなのでしょう、きっと。
今の時代は、ディープインパクトやオルフェーヴルなどといった「クラシックホース」が「最強論争」に当たり前のように顔を出しますが、クラシックに出走すらしなかったこのマルゼンスキーが、間もなく50年にもなろうかという歳月を経てなお、現代の最強論争に顔を出すというのも、今後そう簡単には起こらないことであるような気がします。
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